ガリヴァ旅行記から(ラピュタ人とその学問について)

ところどころに召使いらしい服装をした男がだいぶいた、それらはみんな手に、膀胱をふくらませたのを、ちょうど、あの連枷のように短い棒の先につけて持っている。膀胱のなかには、(これは後になって知ったのだが)乾いた豆と礫とが少しばかり入っている。ところで彼らはこの膀胱でもって、しきりに傍に立っている男の口や耳をたたくのだ。むろんその時は我輩にはなんのことだか見当もつかなかったが、これは思うに、この国の人間というのは、始終なにか深い思索に熱中していて、なにか外からそれぞれの器官に刺激を与えてでもやらなければ、物も言えなければ、他人の話に耳を傾けることもできないらしい。そこで金に余裕のある人は、こうやってたたき役(原語はクリメノールだ)を一人、召使いとして常傭して置き、外出、訪問といえばむろん同伴を忘れることは決してない。つまり彼らの役目というのは、二人以上の人間が寄ると、この膀胱でもって、話し手の口と、それから聞き手側、それは時には聴衆という場合もあるが、その右の耳とを静かにたたくのである。またこのたたき役は、主人の外出にもきっと付添って、ときどき、その眼を軽くたたいてやる。というのは、なにしろ例の瞑想に夢中になっているのだから、崖から落っこちたり、柱に頭を打ちつけたり、それに往来を歩けば人に突き当たったり、あるいはこっちが突きとばされて溝に転げ落ちたり、そうした危険が大いにあるからである。

ガリヴァ旅行記
第三篇 ラピュタバルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリップおよび日本渡航


しかし、世の中には、なんど頭を叩かれても目が覚めない人もいるらしい。
そういう人は、もはやお手上げ。
「愛」や「優しさ」についての「深遠」な議論がお好きな人らを止める気はない。
ただし、本人が「崖から落っこちたり、柱に頭を打ちつけたり」というのは勝手であるが、「往来を歩けば人に突き当たったり、あるいはこっちが突きとばされて溝に転げ落ちたり」というのは、御免である。