はぁ、「利敵行為」ですか

http://mcrash-f2.workarea.jp/archives/2008/08/16/post-164.html

もう一点。批判や対立を問題視しているというご指摘についてですが、本稿そのものが、現状において、目標に立ちふさがる途方もなく強大な敵があるのに、基本的な方向性を同じくする同志が啀み合って内ゲバに力を割いてどうするのか、それは、自由と民主主義を骨抜きにしようという勢力と闘う上での利敵行為じゃないのか、という提起であって、プライオリティの問題とお考えいただければ、あたしの言いたいことがご理解いただけるかと存じます。


そもそも、内ゲバとは、70年代に猛威を振るった暴力的な党派闘争のことをいう。
たしかに、たとえば「新しい教科書を作る会」での藤岡信勝八木秀次による内ゲバみたいな言い方もされるが、それは比喩にすぎない。70年代の内ゲバとは、対立する党派を「反革命」とか「権力の手先」などと規定し、鉄パイプやバールによって相手の急所を狙い撃ちして、相手を再起不能とし、あるいは生命そのものを奪うことを目的とした、無制限の暴力を行使したものだった。

何度でも言うが、ただの中傷や誹謗とは異なる、一定の根拠に基づいた言論による批判は、たとえ比喩であっても、けっしてそのような「内ゲバ」と同一視されるべきものではない。そのような言葉を使うことによって、批判そのものを問題視し、ましてや敵視することは、むしろ運動の自浄作用を失わせ、身内にしか目のいかぬ独善性を高め、それこそが結局は運動の自滅を招くものではないのか。「連赤」事件や内ゲバによる「新左翼」衰退の歴史から学ぶべきことは、むしろそういうことではないのか。

いったい、あなたの言う「強大な敵」とはどこにいるのか。それと闘うとは、どういうことなのか。あなたは真空の中か、それとも観客など一人もいないどこかの闘技場で、あなたの言う「強大な敵」とくんずほぐれつの闘いでもやっているつもりなのか。内部や身近な者による批判行為を問題視し、批判者を敵視するような姿勢で、いったいどうやって「自由と民主主義を骨抜きにしようという勢力」と闘うというのだ。

「利敵行為」とは恐れいる。まるで唯一絶対の前衛党が権威を持っていた時代に戻ったかのような、既視感たっぷりの言葉である。素朴ではあるが下らぬ発想は、それこそ何度でも蘇るということの典型というべきか。馬鹿馬鹿しくて、屁も出ない。