前の記事への補足

http://mcrash-f2.workarea.jp/archives/2008/08/16/post-164.html

これ以上、議論するつもりはないので前の記事は向うにトラックバックを送っていない。
なので、あちらが読んだかどうかは分からないが、読んだとしたら、「自分はそんなことを言ってはいない」とか、「そこまでは言ってはいない」というような反応があるかもしれない。なので、蛇足のような気もするが、いちおう補足しておく。

「自分はそんなことを言ってはいない」とか「そこまでは言っていない」という反応があるとすれば、おそらくそれはそのとおりだろう。それを疑うつもりはない。

だが、それは、結局、反論のために自分が使った論法がなにを意味するのか、煎じ詰めればその論理はどういうことになるのか(極論ということではない)ということに、あまりに無自覚だということを意味するにすぎない。あえて失礼な言い方をすれば、それは自分がなにを言っているのかがそもそも分かっていないということだ。論理というものには、それ自身の論理があるのであって、論理の意味は「自分にはそんなつもりはない」という主観の問題には解消されない。そのような釈明は、たとえあったところで、なんの意味も持たない。

たとえば、彼は「プライオリティの問題」と言っている。
しかし、そもそも、一般的に「プライオリティ」をつけるということは、劣位に置かれた問題はそれより優位にある問題よりつねに下位の問題として扱われることを意味する。したがって上位の問題が解決されない限り、下位の問題は捨て置かれることになる。であれば、この場合「プライオリティの問題とお考えいただければ」という彼の弁明は、なんの意味も持たない。

トリアージ」の場合もそうだが、「プライオリティ」を現実に問題にすべきなのは、緊急事態のように、時間が限定され、利用可能なリソースも絶対的に不足している状況においてのみである。そうでないかぎり、どのような問題を優先させるかは、各自の問題意識と責任に任されるべきことであり、一般的な「プライオリティ」を論じることは意味をなさないばかりか、有害ですらある。

むろん、平時においても「プライオリティ」について考えておくことが必要な問題はあるだろう。しかし、今ここでの「批判」に対する姿勢として、「プライオリティの問題」を持ち出すことは、それ自身間違っている。もっとも、今この現在が、まさに魯迅が生きていたような、「革命」と「反革命」がせめぎあっている内乱的状況であるとでもいうのなら話は別だが。

だが、そもそも、その前に「利敵行為」という言葉を使っている以上、内部や身近な者からの批判そのものが問題視されていることは明らかだと言わざるを得ない。

なお、これも蛇足ではあるが、リンク先の方に対して、今回いささか執拗な批判を展開したのは、その論理が内部や身近な者からの批判を問題視する発想として典型的なものであり、おそらくは多くの人に共通するものであると感じたからであって、それ以上の意味はないし、むろんなんの他意もないことを付言しておく。
そもそも、政治ブログ業界なんてものは、その周辺を含めても「広大なネット空間」のごく一部にすぎない。その内部でのあれやこれやの言説が、社会全体の政治状況に直接大きな影響を与えると思っているとすれば、それはいささか過剰な思い込みというべきだろう。
そこで行われる論争程度のことで、「内輪もめ」だの「内ゲバ」だの、はては「派閥抗争」だの「○○へ殴りこんだ××」だのと言い出す連中のほうがどうかしている。お互いの議論を通じて互いに高めあうこと、そういうことを自ら放棄して、いったい誰とどうやって闘えるというのだ。ばかも休み休み言えとは、このことだ。
ただの知ったかぶりやはったりだけの、勝ち負けだけを目的にしたようなつまらぬ議論はともかくとして、批判や反批判などは、お互いにいくらでも好きなだけやればよいではないか。その程度のことでへたれるような連中に、いったいなにができるというのだ。そんな程度の安っぽい覚悟で「途方もなく強大な敵」などと言われては、それこそ臍が茶を沸かすというものだ。