権利の前提は法なのか

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私有財産も契約も基本的人権も、権力によって守られるものであり、法を前提とするものであるということを確認すればよかったのではないかと思います。

権利は、つねに権利への要求によって支えられている。
「われわれには〜〜する権利がある」とか「われわれには〜〜の権利がある」というとき、それは単にそのような権利が法によって認められているということを意味しているわけではない。
歴史を振り返っても分かることだが、そのような言葉が意味するものは、むしろそれが正当であるという主張と、そのことを認めよという要求の表明である。
法によってある権利が認められ定められるのは、つねにある者によってそのような権利の正当性が主張され、それが社会的に広く承認された結果にすぎない。
だとすれば、権利の前提は、「法」というよりむしろ「権利への要求」というべきではあるまいか。かりにそこでいう権利とは「法的権利」のことであるというなら、その前提は「法」であるというのはただのトートロジーにすぎない。
むろん、法によって認められることで、権利ははじめて公的な効力を持ち、社会一般に通用し強制可能ともなる。したがって、法によって認められる前とその後ではその性格は異なる。
厳密に言えば、その違いは権利の主張や要求としての「潜在的権利」と規範としての効力を有する「具体的権利」ということになるだろう。そこに「権利」という言葉の曖昧さや二重性を認めることも可能だ。そもそも「権利」なる言葉は、もともと「正しいこと」を意味するのだから。
だが、両者はまったく別個なわけでもない。なぜなら、後者を支えているのは前者の要求であり、どのような権利も、そのような要求を受けてはじめて認められてきたのだから。
だからこそ、「権利の上に眠る者は保護されない」という法格言にも意味があるのではないか。それは、単なる時効の根拠というだけの話ではあるまい。
私有財産も契約も基本的人権も」法によって承認され、法によって守られているのはそのとおりだが、そのことは「法を前提とする」ということと同じではない。論理的に言う限り、法によって承認され、法によって守られるものの中には、法の前に存在していたものも含まれうるのだから。