加藤尚武による丸山批判

加藤尚武というと、今やすっかり倫理学者というイメージがあるが、もともとはヘーゲル研究者として出発した人である。もっとも、今はヘーゲルに代表されるドイツ観念論よりも、英米流の功利主義思想を評価する立場に移行しているようだが。

東大闘争時、助手を務めていた加藤が目撃した、全共闘学生による丸山吊るし上げの場面の回想などで話題を呼んだ、「進歩の思想 成熟の思想」に納められた加藤による厳しい丸山真男批判の一節。

 厳密に言えば、『日本政治思想史研究』で丸山の用いる西洋哲学用語は全部間違いである。たしかに旧制高校の秀才の常識という程度の、通り一遍の意味では間違いとは言えない。しかし言葉の歴史的な背景に一歩踏み込めば、どれ一つとして適切ではない。丸山には言葉の深層にまで達する水準での西欧思想体験がないのである。...

 西洋の文化的な土壌から引き抜かれて移植されたカテゴリーは、しかし日本文化の記述方法としては検証の可能性を持たない不幸な運命に置かれてしまう。日本学の研究者の多くは丸山の用いる正統の用法を外した外来語のカテゴリーに対して、その適否を吟味する術を知らない。西洋哲学の研究者の多くは、カテゴリーの適用の正しさを対象の側から吟味することができない。丸山の記述は、どちらの側の研究者からもそれぞれ死角に当たる位置を占めていて、吟味をすり抜けてしまう。
 このことは丸山の学問にとっては不幸であるが、丸山個人には幸運をもたらした。レトリックの作り出した、どこから見ても彼の所在が死角に入る不思議な部屋に住み続けて、彼は何人も打ち倒すことのできない権威として、つねに日本の知的な世界での第一人者の地位を保ち続けているのである。*1


丸山の「日本ファシズム」論が、本質論を欠いたただの印象論でしかないことは、すでに多くの人によって指摘されている*2。それはせいぜいのところ、コミンテルンファシズム論と河合栄次郎のようなリベラリズムからするファシズム批判のつぎはぎ細工でしかない。丸山は、東京裁判での被告の姿をニュルンベルク裁判でのゲーリングらと比較して、「だから戦犯裁判において、土屋は青ざめ、古島は泣き、そうしてゲーリングは哄笑する」*3と書いている。

だが、そのようにしてナチズムをファシズムの典型として、それに対する「日本ファッシズムの矮小性」*4なるものを指摘する丸山の立場は、日本資本主義の「軍事的半農奴制的性質」*5を指摘して、日本資本主義の特殊性を一面化し、発展そのものを否定してしまった戦前の講座派や、フランス革命とその後の変革の理念化に基づいて、「大塚史学」と一般に呼ばれる経済史学を展開した大塚久雄の立場とも共通するものだ。

彼らはみな、理念でしかないヨーロッパの歴史を規準として、そこからの偏移と立ち遅れのみを嘆く近代主義者であり、ヨーロッパを憧れの目で見ては、「日本はこんなに遅れている」、「前近代的な遺制がこんなに残っている」、「近代的な自立した市民がいまだに存在しない」などと、いつになっても嘆いているだけだ。

そして、戦後もなお、日本の国民がいまだ自立した市民たりえていないことを嘆き、「狼少年」のように、ことあるごとに軍国主義の復活と新たなファシズムの危険を説いて回る。ようするに、彼らはいまだに日本の「近代化」と、そこに多少なりとも生まれた市民意識とが信頼できないのだ。

パターナリズム」という言葉は、それと同じように、たかだかネット上の論争程度で、「これこそファシズム、軍靴の足音と考えるのは私だけだろうか。」だのという大げさな言葉を振り回すような人にこそ相応しい。

*1:加藤尚武「進歩の思想 成熟の思想」 講談社学術文庫版 P.190, 191

*2:滝村隆一「丸山『ファシズム』論の解体」など

*3:丸山真男「現代政治の思想と行動」P.20

*4:丸山 前掲書 P.106

*5:山田盛太郎「日本資本主義分析」