コジェーヴ 『ヘーゲル読解入門』から

学生にとって「学ぶ」ということは、なにも偉い先生が教壇から説いて聞かせるご高説を拝聴することだけではないだろう。その場に「先生」を批判する人が現れ、そこにおいて真面目な討論が行われたなら、それに耳を傾けることも「学ぶ」ということになるはず。

大学において「学ぶ」ということの目的が、ただ先生のご説を拝聴して、卒業のために「単位」を取得することだけにあるというのなら、また話は別だが。それに先生にしたって、なにも自分の小型エピゴーネンをせっせと大量に生産したいがために、わざわざ講義をしているわけでもないだろうし。

ところで、この先生が言っているらしきことをあちこちで見聞きしていて連想したのは、もとは亡命ロシア人であり、戦前のフランスで、ヘーゲル哲学、とりわけ彼の「精神現象学」について講義をしたアレクサンドル・コジェーヴという人。この人の講義には、サルトルメルロ=ポンティラカンバタイユなど、戦後のフランス思想界で名を成した錚々たる人たちが出席していたそうだ。

コジェーヴの理解によれば、ヘーゲルは『精神現象学』において、かのナポレオンについて、「このナポレオンこそが、自己の決定的充足において、そしてそれにより人類の歴史的発展の過程を仕上げる完全に「充足」せる人間である。彼こそは用語本来の強い意味での人間的個体である」*1といったことを書いていることになるそうだ。ヘーゲルには、馬に乗ってイェナに登場したナポレオンを見て、「あれこそ世界精神の姿だ」と語ったという逸話があるが、コジェーヴによると、ヘーゲルはナポレオンの姿に、「歴史の終わり」を見たということになる。ちなみに、かの『歴史の終わり』を書いたフランシス・フクヤマも、たしかコジェーヴの弟子筋に当たっていたはず。

引用するのは、彼の講義録の邦訳である『ヘーゲル読解入門』に納められた原注の一節*2だが、『動物化するポストモダン』という本でのネタ元の一つが、このコジェーヴの一節にあることは、どうやらかの先生自身認めているらしい。先生のご本は読んでないので、それがどの程度なのか、また他にどういうネタ元があるのかまでは知らない。

 「ポスト歴史の」日本の文明は「アメリカ的生活様式」とは正反対の道を進んだ。おそらく、日本にはもはや語の「ヨーロッパ的」あるいは「歴史的」な意味での宗教も道徳も政治もないのであろう。だが、生のままのスノビズムがそこでは「自然的」或いは「動物的」な所与を否定する規律を創り出していた。これは、その効力において、日本や他の国々において「歴史的」行動から生まれたそれ、すなわち戦争と革命の闘争や強制労働から生まれた規律をはるかに凌駕していた。 
 なるほど、能楽や茶道や華道などの日本特有のスノビスムの頂点(これに匹敵するものはどこにもない)は上層富裕階級の専有物だったし今もなおそうである。だが、執拗な社会的経済的な不平等にもかかわらず、日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている。このようなわけで、究極的にはどの日本人も原理的には、純粋なスノビズムにより、まったく「無償の」自殺行為を行うことができる(古典的な武士の刀は飛行機や魚雷に取り替えることができる)。この自殺は、社会的政治的な内容をもった「歴史的」価値に基づいて遂行される闘争の中で冒される生命の危険とは何の関係もない。最近日本と西洋世界との間に始まった相互交流は、結局、日本人を再び野蛮にするのではなく、(ロシア人をも含めた)西洋人を「日本化する」ことに帰着するであろう。


なお、コジェーヴがこの一節を書いたのは、1959年に日本を訪問したさいに強い印象を受けたかららしい。上に引用した文の直前で、彼はこう書いている。

私がこの点での意見を根本的に変えたのは、最近日本に旅行した(1959年)後である。そこで私はその種において唯一の社会を見ることができた。その種において唯一のというのは、これが(農民であった秀吉により「封建制*3清算され、元々武士であったその後継者の家康により鎖国が構想され実現された後)ほとんど300年の長きにわたって「歴史の終末」の期間の生活、すなわちどのような内戦も対外的な戦争もない生活を経験した唯一の社会だからである。


鎖国」を行っていた江戸時代が、世界の中において比較的安定した「平穏」な時代であったことは確かだろう。しかし、ここでコジェーヴが言っていることは、「比喩」としてならともかく、しょせん通りすがりの外国人が異文化から受けたただの印象に過ぎぬように思える。少なくとも、戦前からの多くの日本の歴史学者らによって積み重ねられてきた研究で明らかにされてきた江戸時代の日本は、それほど単純ではなかったはず。

コジェーヴが言っている、刀を飛行機や魚雷に取り替えた戦時中の「特攻」にしても、たしかに三島のような男はそこに一種の美学を感じたのかもしれない。しかし、それもまたただの倒錯した「審美家」による倒錯の結果にすぎまい。「茶道や華道などの日本特有のスノビスム」というコジェーヴの指摘は、日本文化論としては面白いところもないわけではない。ただし、それほど新鮮だとも思わないが。

*1:ヘーゲル読解入門」88頁

*2:同書 246,247頁

*3:ここで言う「封建制」とは、中央の権力が弱く集権制がいまだ成立していない、土着領主による分権的な支配体制のことを指す