「正論原理主義」なる言葉について

原理主義という言葉は、もともと自己の宗教の経典や宗教的禁忌を絶対視する思想を指す fundamentalism の訳語にすぎないのであって、なにも「イスラム原理主義」に限られるわけではないし、それ自体がつねに否定的な価値判断を伴っているわけでもない。世界の中には、正真正銘の立派なキリスト教原理主義者もいれば、ユダヤ教原理主義者だっている。インドの「ヒンズー至上主義」だって、やはり一種の原理主義だろう。

たしかに、80年代以降の、タリバンハマスイスラム同胞団などのイスラム系諸団体の勢力伸張と、彼らが起こした「テロ」行為のために、現在では「原理主義」と言えば「イスラム原理主義」、「イスラム原理主義」といえば、野蛮でおっかない人たち、というイメージが流布しているのは否定できないが、本来それとこれとは別の話である。だから、村上が「正論原理主義」なる言葉を使ったからといって、それがすなわち、彼のイスラムやアラブへの偏見の表れだと断じるのは、いささか早計というものだろう。そもそも、彼が「原理主義」という概念について、それほど無知なはずもあるまい。(参照) 

たとえば、神に与えられた「約束された土地」への帰還を主張して、イスラエルという「ユダヤ人国家」を建設し、いままたパレスチナを取り囲む高い壁を作り上げている人々だって、立派な「原理主義者」というものだろう。つまるところ、原理主義というのは、体系化された宗教やイデオロギーの数だけ、存在すると言ってもいいくらいであり、そこに共通して見られる、教条的で公式主義的な思考こそが、悪しき意味での「原理主義*1というものなのだ。ちなみに、イスラム系組織の中で、テロを常習とするようなグループは、最近では「イスラム原理主義」ではなく「イスラム過激派」と呼んで、区別するようになってもいる。

そもそも、村上が「ネット上にはびこっている」と指摘したのは、「正論原理主義」という風潮であって、「正論」ではない。「醜悪な表現」などという、それこそ非論理的な言葉で批判している人は、とりあえず相手がなにを言っているのかぐらい、ちゃんと読んでまずは理解しろよと思う。(参照)

もっとも、村上が言うような「正論原理主義」なるものが、ネット上で危険なほどにはびこっているとまでは思わない。むしろ、いまそういう不毛な「正論原理主義」的思考に最もはまっているのは、かの西尾幹二八木秀次といった面々だろう。

彼らだって、自分の主張はまさに「正論」だと思っているのであり(サンケイかよ)、西尾の「原理主義」的思考たるや、いまや「半藤一利、保阪正康、北岡伸一、五百旗頭眞、秦郁彦」のような保守派まで、「進歩的文化人」として糾弾するほどに亢進している。ただ、「連合赤軍」事件*2やその後に頻発した「内ゲバ」事件などの時代をリアルに経験している村上からすれば、今回の件でそういう感想が出てくること自体は、やや的外れの感はあるものの、そう不思議なことではあるまい。

ちなみに、いささか個人的なことを言えば、学生時代の知り合いの中には、赤・青・白(まるで三色旗だな)とかいろんな党派の関係者がいたもので、中には対立党派との抗争や、分裂騒ぎに巻き込まれて怪我をした者もいるし、逆に相手を襲って捕まったやつもいたりする。無責任な指導部のころころ変わる方針に振り回されたあげく、学生生活を棒に振ってしまった者なら、それこそごまんといる。まあ、別に恨み節を語るつもりはないし、大多数はそれぞれどこかでちゃんと生きているのだろうとは思っている。

しかし、いまや初老に達するといういい年こいて、いまだに「ゲリラ的戦闘」だの「パルチザン的闘争」だのと、非現実的で空疎なスローガンを掲げた「コップの中の嵐」のごとき活動とやらに明け暮れているやつのことも、たまに風の噂で聞いたりする。昨年だったか、友人というほどではないが、昔のちょっとした知り合いが、行政相手につまらぬ事件を起こして逮捕されたという報道が流れて、おいおいと思ったりもした。

そういうわけで、村上の言うこともまったく分からないというわけではない。ただ問題なのは、「正論」を主張するということではなく、その「正論」が本当に正しいのか、ただの自己の主観的な思い込みに過ぎないのではないか、ということを、つねに現実の中で自分の責任において検証するという態度を失わないことだ。それは「悪しき相対主義」なんてものとはなんの関係もない。総理を辞めた福田さんの台詞じゃないけども、大事なのは「自分を客観的に見る」ということができるかどうかにある。

そのことを忘れて、夜郎自大な独善主義に陥ったとき、「正論」なるものはたちまちただの「ドグマ」に変質する。そういう危険性を持たない「正論」なんてものは、世の中に存在しやしない。そもそも、いつの時代でも、「現実」というものは、単純明快な論理やイデオロギー、自分自身と現実とに立脚していない素朴で安直な「正義感」のみで割り切れるほど、単純にはできてないのだから。

*1:ただの教条主義ではない、根本に立ち返るという意味でのまっとうな「原理主義」的思考であれば、たとえば西欧の「宗教改革」で見られたように、古いものに新しい生命を与えて蘇らせ、結果的に社会的変革を促す働きをすることもある。ただし、それはここでは関係ない別の話。そういう意味でのイスラム原理主義であれば、そのような可能性もあるのかもしれないが、的確なことを言えるほどの知識までは持っていないから割愛する。

*2:ただし、ネット上の議論程度で「まるで連合赤軍みたいだ」などと言い出す者らがいることには、うんざりする。そもそも「連赤」事件は、内部での激しい議論や対立の末に起きたものではない。むしろ、そこにまっとうな議論や対立の場が保証されておらず、そのような場が成立していなかったからこそ起きたものである。