「内心の自由」ってなんなんだ?

http://d.hatena.ne.jp/kutabirehateko/20100421/Second_Rape


一般的なものであれ、特定の人間に対するものであれ、人間の様々な行為や行動に対する批判的な言及は、人間の意識、つまりはその内面に対する問いかけを伴わざるを得ない。いささか型にはまったものが多いとはいえ、「差別」はいけない、「いじめ」はよくない、というような、よくある一般的な啓蒙だってそう。人間の意識=内面への問いかけを伴わない批判など、なんの現実的な変革ももたらさない、無力な批判にすぎない。

たとえば、アメリカでの黒人差別に反対し抗議した人らの活動は、なによりも、そのような差別を当たり前のもの、自明のこととしていた人らの意識=内面への問いかけを伴うものであったはず。そして、そのような批判を多くの人が正当なものとして受け入れた結果、現在では、少なくとも、公然たる「人種差別」は非難されるものという合意が社会的に成立したということだ。

もちろん、だからといって個々人の「差別」意識までが解消されたとは言えまい。だから、「差別」は正当と思っている者がいまなおいたとして、非難を受けたり、社会的不利益を被りたくなければ、それは「内心」にしまっておけ、と呼びかけるのには、一応の合理性はある。だが、だからといって、人の心の中にしまわれている、そのような「差別」意識への問いかけが無用となるわけではないし、ましてや禁止されるわけでもない。

そもそも人の「内面」そのものが罰せられないのは、「内面」が「内面」に留まっている限りでは、他者の内面など、神様か超能力者でもない限り、誰にもわからないからだ。どんな絶対的権力者にだって、分からないものなど罰しようも裁きようもないのは、当たり前の話にすぎない。

だから、そこで「『内心の自由』は保証されている」などと言い出すことは、ほとんど無意味な戯言か、でなければ、そのような言葉を盾にとって、ただ他者の声に耳をふさぎ、「あーあー、聞こえない」状態に閉じこもることを、自ら正当化しているにすぎない。

言葉を含めて、人間の表現行為とは、他人の心のドアをノックすることだ。人間は、言葉を含めた表現によって、互いに影響し影響される。それは当たり前のことであり、人間の「コミュニケーション」とは、もともとそういうものだ。そこで「『内心の自由』は保証されている」などと言い出すことは、ただの無意味な冗言にすぎない。

むろん、そこでの「コミュニケーション」のありようはひとつの問題である。ずかずかと、他人の内面に踏み込もうとすれば、非難されることもあるだろう。だが、それは、なにも他人の心のドアを無理やりこじ開けて、ひとりひとりの「内心」を検閲してまわろうという話と同じではない。そうだというのなら、「差別はやめましょう!」というような、ありふれた一般的なキャンペーンだって、他人の「内心」の検閲であり侵害だという話になる。

それでもなお、「内心の自由」は保証されるべきだというなら、それは結局のところ、他人の「心」への働きかけ、言い換えるなら、政治的社会的な言論はもちろん、あらゆるおたがいの「コミュニケーション」そのものを禁圧すべきだということになるだろう。むろん、そんなことは誰も望むまいし、そもそも不可能なことでもある。

論理的に言うならば、保証する者とは、保証される者より上位の優越者でなければならない。国家や政治的権力が、「表現の自由」だの「結社の自由」だのを保証できるのは、裏返して言うならば、国家にはその気になれば、そういった自由を規制し、あるいは蹂躙するだけの現実的な力があるからでもある。それは、むろん歴史が証明している。

内心の自由」は保証されているというならば、そのような保証を与えてくれる者は、いったいどこにいるのだろうか。もしいるとすれば、それこそ、人間の隠された「内心」もすべてお見通しという神様以外にありえないということになる。

そもそも、他者に自分の自由を保証してほしいというのは、自分の自由に関する生殺与奪の権を、その他者に預けるということとほとんど同義なのではあるまいか。人間の「内心の自由」などというものは、そのような他者から保証を受けられるようなものではない。