歴史について

 20世紀は「戦争と革命の時代」であるということが言われたことがある。これは、言い換えると「大量死の時代」であると言ってもいいと思う。

 第一次大戦ロシア革命とその後の内戦、さらにスターリンの粛清、辛亥革命後の軍閥の抗争と日中戦争、そしてその前後を挟んだ国共内戦、第二次大戦とナチスによるユダヤ人虐殺、民間人を狙った都市への絨毯爆撃と広島・長崎への原爆投下

 また、中国革命後の毛沢東政権下での大躍進政策の失敗とその後の「文化大革命」、さらには朝鮮戦争ベトナム戦争カンボジアでのポルポトによる虐殺、アフリカ各国での内戦、最近では旧ユーゴの解体に伴った内戦など、20世紀に起きた「大量死」という事実は、それこそ両手両足の指を使っても足りないぐらいにあげられる。

 こういった「大量死」は、多くの場合きちんとした記録など残されていない。多くの人が記録も墓もないままに処刑され、あるいは餓えや衰弱などで死んでいったのだろう。そういう中で、生き残った人たちの記憶やわずかな資料をもとに一人一人の死を明らかにし、全体としての事実を可能な限り再現していくのが、残された者の使命であり、歴史を研究する者の仕事なのだろう。

 そういう気の遠くなるような作業に比べれば、「歴史は科学たりうるか」だとか「歴史の客観性」だとかいう話は、ある意味どうでもいいことのように思える。

 そういう一つ一つの小さな事実を積み上げていく作業の困難さに対して、たとえば、「南京事件の問題を数字の議論にするのは、反動勢力側にとって有利に働くだけだ。なぜなら確定できない議論というのは、結局は確かなことは何もいえないのだという『不可知論』的な結論に落ち着く。」 だとか、

 「それはそもそもが数を問題にするから本質が見えなくなっているのだと思う。数ではなく、『虐殺』された行為の質を問題にすべきなのだと思う。その『行為』の不当性をこそ深く考えることによって本当の意味での「虐殺」ということが理解できるのだと思う。」 などということを言う人は、いったいなにを見、なにを考えているのだろうかと思う。

 犠牲者の数の多少を政治的に利用することしか考えていない人間などは、そもそも論外である。政治的思想的立場に関係なく真面目な研究者たちの間にも、しばしば犠牲者の数について対立や論争が生じるのは事実だが、彼らはなにも数の多少を、採れた大根の数や釣れた魚の数のように競い合っているわけではあるまい。もしも、10万人の犠牲者がいるとすれば、そこには固有の顔と固有の名前、固有の歴史を持った10万の人間がいるのである。犠牲者の数について論じることが、どうして虐殺という問題の本質を見失うことになるのだ。

 「本質」などという言葉を持ち出すとさも立派に聞こえるが、「本質」と「現象」を機械的に対立させることがそもそも間違っているのだ。「本質」は「現象」の中に含まれているのであり、「現象」として現れているからこそ本質なのだ。事実を明らかにする努力を軽視することは、事実そのもの、すなわち殺された人々に敬意を払わぬことと同じではないか。事実を抜きにして「本質」を論じることなどそもそも無意味だし、できるはずもない。そういう論理のことを、昔から「空理空論」と言うのではないか。

 具体的なデータに基づかずに「蓋然性」だの「必然性」だのといった抽象的な概念や論理だけで、問題が解決できるかのように言っているところを見ると、この人は歴史というものの本当の恐ろしさについて、何も分かっていないのではないかと思う。

 そういう発想は「文学的発想」だなどと言うのなら、そんなことは構わない。それは、かえってその人が振り回す「数学的発想」というものが、歴史の前ではいかに無意味でありくだらないかを示しているだけではないかと思う。

 そもそも、文献であれ証言であれ、資料の信憑性を検証する「資料批判」などは歴史研究のイロハである。怪しげな資料を鵜呑みにする研究者などは、ただの阿呆にすぎない。そんなところで「数学系」などという言葉を持ち出すことに、いったい何の意味があるのだろうか。そういうことは、少なくとも「歴史研究」というものがどういうことかを学んでから言うべきことだろう。

 無知は、それだけでは恥ではない。人にはそれぞれ専門分野というものがあるし、得手不得手があるのもしかたがない。しかし、そのことにいつまでも気付かないのであれば、単なる「主観的善意」だけでは済まされない問題だろう。

 「左翼的な反権力の陣営」だの「反動勢力」だのといった、いまやほとんど死語に近い陳腐な言葉を使うところに、すでにこの人の思考がいかにステレオタイプでしかないかが表れている。唯一絶対で一枚岩の「前衛党」無謬神話や「社会主義」神話が跋扈していた時代ならばともかく、いったい今の時代のどこに、「左翼的な反権力の陣営」などというものが存在しているのだろうか。

 そんなものは、それこそどこにでも「左翼の陰謀」なるものをかぎつけては騒ぎまわる、愚かな「反動イデオローグ」の妄想の中にしか存在していないのではないか。だいいち、歴史の研究者は、「反権力」などという空疎なスローガンのために研究しているわけでもあるまい。どう見ても得意とも思えぬ生煮えの政治論や運動論など、語らぬほうがましだろう。

 「30万人説のトリックの存在が見つけられるような資料を探したい」数学屋のメガネ:「南京大虐殺」30万人説についてなどとピントのずれたことを言う前に、いったいなにが問題になっているのか、頭を冷やしてじっくり考えてもらいたい。

 誰も南京事件に関する「データ」について論じているのではない。じゅうぶんな知識やデータに基づかずに、我流の定義や論理だけで問題が解決できるかのような「論理」が批判されているのではないのか。


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