演繹主義的論理についての感想

中村礼冶さんの「ニュース逆さ読み」というブログにこんなことが書いてあった。


 どちらもどうということのない身の回りの断片が綴られている。今から40年ほど前にさんざん読まされ、私自身も書いたことのあるビラではおよそ考えられない書き方だ。当時のビラは世界情勢の分析から始まり、身の回りのことから遥かに遠い、それこそ「グローバル」な中身に満ちあふれていた。


 これは『9条改憲阻止の会』というところが出している「現場ニュース」についての中村さんの感想なのだが、今から30年ほど前の自分の学生時代のことを思い出してみても、中村さんが書いていることとそれほど違いはないように思う。たとえば、当時の学生大会などに出された議案書などは、たいていの場合 「ベトナム人民のぉ、英雄的な戦いによってぇ、危機に追い詰められたぁ、アメリカ帝国主義は〜」 (ここはアジ演説ふうに) などという、まあなんともいえぬ大仰な言葉で書き起こされた国際情勢の分析から始まっていたものである。


 もっとも、こういった「国際情勢」の分析などというものは、ほとんどの場合、そのへんにある雑誌やどこかの機関紙などから適当にひっぱってきたようなもので、書いていた当人らも本当はそんなに真面目に考えていたわけでもないのだろうと思う。


 それでも、そのようなスタイルがずっと受け継がれていたのは、たぶん、わがXXX大学の状況は現在の日本の政治的社会的状況によって規定されており、そしてそれはさらに世界の政治状況によって規定されている、したがってわが大学における状況を論じるには、究極的な規定要因である国際情勢からまず説き起こさなければならない、というような思考方法があったせいではないかと思う (まあ、単純になにやら「革命的」で「急進的」な空語を並べたいという、学生らしい無邪気な願望のせいかもしれませんけど)。


 日本の状況が国際的に規定されているというのは、確かに間違ってはいない。現在の日本は江戸時代のように鎖国をしているわけではないのだから、それはある意味当然のことではある。とくに日本の経済が世界の影響を受けやすいことは誰しも認めることだろう。なにしろ、「アメリカがくしゃみをすれば日本は風邪をひく」という諺(?)もあるくらいだから。


 たかだか一地方の大学の学生大会の議案書を国際情勢の分析から書き始めるというのは、冷静に考えればずいぶん大げさな話なのではあるが、その根底に上のようなそれなりに正しい「論理的思考」があるとすれば、それはそれなりに考察に値することではある(かな)。


 こういう思考の特徴は、いったん頭の中だけで論理を抽象的に組み立てて、そこで得た結論から今度は天下り式に現実に降りてくるというところにあるのだが、これはそれなりに正しい「抽象的論理」から、いかに馬鹿げた空疎な思考方法が導き出されているかのひとつの典型だと思う。


 そこではつねに論理が一方向にしか働いていないのであって、現実から論理を組み立てるという思考と、論理の正しさをつねに現実によって検証し訂正するという態度が存在していないのだ。


 このような思考方法は、丸山真男の言葉で言えば「還元主義的」な「理論信仰」ということになるだろう。数学の問題のような条件の数が限定されている閉じた世界の中であれば、前提さえ与えられればあとは論理だけで結論を導き出していくという方法も有効かもしれない。


 しかし、条件そのものが無数に存在し、互いに影響しあいながらつねに変化している現実の世界ではそういうわけにはいかない。そこでは、現実と抽象の間を絶えず行ったり来たりすることが必要になるのだ。


 「言語過程説」という独自の言語論の提唱者として知られる、国語学者時枝誠記(1900〜1967)という人の国語学原論(上)』岩波文庫)に、こんなことが書いてある。


 言語の研究法は、言語研究の対象である言語そのものの事実に基づいて規定されるものであって、対象の考察以前に言語研究の具体的な方法論なるものは存在し得ない。


 およそ真の学問的方法の確立あるいは理論の帰納ということは、対象に対する考察から生まれてくるべきものであって、対象以前に方法や理論が定立されているべきはずのものではない。それがまた学問にとって幸福な行き方であろうと思う。たとえ対象の考察以前に方法や理論があったとしても、それはやがて対象の考察に従って、あるいは変更せらるべき暫定的な仮説として、あるいは予想としてのみ意義を有するのである


 この本、まだ40ページしか読んでないのだが(時間が足りない!)、まことにその通りだと思う。


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