まだ分からない人がいるようなので

以前、楽天の本館の「書いてあること」と「書かれていないこと」という記事で、apjさんらが言う「書かれていることしか読まない」ということと、私の考える「過剰な主観を投影しない」ということの違いについて説明した。
ところが、まだその違いが理解できずに、一部で「ダブスタ」だのなんだのと、詰まらぬ難癖をいまだにつけている人がいるようなので(たとえば「どむどむ」とか)、もう一度説明しておく。
「過剰な主観の投影」とは、他人の文章に対して、読み手が自分の抱えているバイアスや偏見に無自覚なまま、それを投影することをいう。ようするに、相手にはその気がないのに、勝手に、そこにありもしない相手の敵意や悪意、嘲笑だとかを読み取ってしまうようなことである。
しかしながら、読むということは、それ自体「主観」の作用である。「主観」=「主体」の作用なくして、いかなる文の意味も読み取れるはずはない。
ただ、その場合に、自分勝手な主観の作用を極力排して、相手の文章の中から、相手の文章に即して、その思考の流れを読み取り、その流れに沿って、相手の言葉の意味するところを考えるということである。
だから、そのことは、相手の言葉の意味を、ただの文字面や、辞書に載っている意味だけで解釈することは意味しない。賞賛の言葉が実は皮肉であったり、逆に、普通なら怒りや抗議を表す言葉が、ただの冗談で使われることも珍しくはない。それを正しく読み取れるかどうかは、基本的には、文脈がちゃんと読み取れているかどうかに依存する。もっとも、そのためには相手の文章が、それなりに筋のとおったものであることが前提なのだが。
たとえば、比喩もそうである。「書いてあることしか読み取らない」ということをただバカの一つ覚えにして、言葉の意味というものをただ辞書での説明に限定してしまえば、比喩が意味するところも理解できない、いや比喩を理解してはならないということにもなるだろう。しかし、私は、そんなアホなことなど言ってはいない。
いずれにしても、文章を読み取るということは、なにか1つのルールを覚えておきさえすれば、なんとかなるというようなものではない。そもそも、コンピュータのように、いくら複雑な計算でも、データを入力しさえすればあとは自動的に答がぴぴぴっと出てくるようなことは、本来の意味で「考える」とは言わないのだ。文章を読むということは、そんな単純な作業ではない。
 

 であれば、そのような行為に陥らないようにするために必要なことは、自分の 「読解力」 を上げる努力をすると同時に、そのような 「過剰な主観の投影」 が発動される根拠となっている、自身が無意識のうちに抱えている様々な偏見や心理的バイアスなどを自覚すること以外にないだろう。

 どんな問題であれ、根本的な問題というものは、日々新たに再生産されている問題でもあって、一朝一夕に解決できるようなものではない。これまた当たり前の話であり、いささか身も蓋もない話ではあるが、そのような問題に対しては、万全の特効薬のようなものも存在しない。