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加藤和彦、自殺の報道

http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2009101700261

 17日午前9時25分ごろ、長野県軽井沢町のホテルの客室で、音楽プロデューサーで「ザ・フォーク・クルセダーズ」メンバーだった加藤和彦さん(62)=東京都港区=が首をつって死亡しているのが見つかった。客室には2通の遺書とみられる文書が残されており、県警軽井沢署は自殺とみている。
 同署によると、加藤さんは16日に1人でホテルに宿泊。17日午前8時半ごろ、ホテルから同署に「宿泊客の様子を確認してほしい」と通報があり、署員が駆け付けたところ、浴室内で死亡している加藤さんを発見した。
 加藤さんは数日前、知人女性との電話で「死にたい」という趣旨の話をしていたという。その後、加藤さんと連絡が取れなくなり心配になった女性がホテルに問い合わせた。
 女性は加藤さんが訪れそうな場所を捜していたという。ホテル側が内線電話をかけたが応答がなかったため、同署に通報した。
 遺書とみられる文書は紙に印刷され、加藤さんの関係者にあて書かれていたという。知人女性と音楽関係者の男性が本人と確認した。
 加藤さんは京都市生まれ。1965年、龍谷大在学中にクルセダーズを結成し、その後、サディスティック・ミカ・バンドを率いた。自ら作曲した「あの素晴しい愛をもう一度」「帰って来たヨッパライ」などがヒットした。 
 北朝鮮の曲を基にしたクルセダーズの「イムジン河」は発売中止になったが、2002年にCDが出て話題となった。最近も08年に別のバンドのアルバムを発表するなど、音楽活動を展開していた。(2009/10/17-19:46)


「やることがなくなった」といった内容の遺書を残したという報道もあって、ふとマルクスの娘婿だったラファルグとその妻(つまりマルクスの娘)が自殺したことを連想した。ラファルグについては最近「怠ける権利」の新版が出ており、うん十年ぶりに再評価の機運が出ているのかな。二三ヶ月前に買い込みはしたけど、ぱらぱらめくっただけで、まだちゃんと読んではいない。

 話は変わるが、マルクスの次女のラウラは、キューバ生れのポール・ラファルグという人物と結婚している。ラファルグはのちにフランス労働党を結成するなど、フランスにおけるマルクス主義の普及に務めた人だが、1911年に夫人であるラウラとともに、高齢のためにもはや革命運動の役に立てないという理由で自殺している。ときにラウラは66歳、ポールは69歳であった。

「岡崎次郎はどこへ消えたのか」(2007.10.1)より



ついでに新しい記事のほうも

 あれやこれやの雑感

 最後はまったくの余談だが、安保だの沖縄だのといった問題を全面展開したあげく、「君はどうするんだ? 許すのか、許さないのか」 みたいな論法でせまるのは、たしかに昔からよくあったオルグ作法のひとつである。このような論法が、ときとして 「詐術」めいて聞こえるのは、たぶんある特定の問題へのコミット、つまり、そのような問題に対する責任の引き受けということが、いつの間にか○○同盟だの○○派だのといった、特定の政治的立場へのコミットということにすり替えられているからだろう。

 そういうすり替えというのも、多くの場合、オルグしている本人自身が気づいていない。つまり、そういう論法を使う人自身が、頭の中で上にあげた二つの問題の違いに気づかず、無意識に等置しているということだ。しかし、この二つを等置し混同することは、その意図がどうであれ、結局は自派の勢力拡大のために個別の問題を利用するという 「政治的利用主義」の現れにすぎない。

 かりに、ある人がそのような責任を認めたとしても、それをどのような形で引き受けるかは、それぞれが自己の責任で判断すべきことである。ある問題について、自己の責任の存在を認めるか否かということと、その責任を個人がどのような形で引き受けるか、ということとはいちおう別の問題なのである。


相手の立場を問うという論法に対して反発が大きいのは、たぶんそれが上のような「すり替え」を伴ったオルグの論理として利用されることが多いからだろう。しかし、id:mojimojiさんの言う「応能責任」というのは、責任の引き受け方は個々で決めるべきというものだろうから、そういう非難や、「詐術だ」、「全体主義だ」などという批判はあたらないのではと思う。あとは、まあ単純に「嫌い」という人もいるのだろうけど。