宮台真司のトンデモな歴史観

宮台真司の近代史認識がいかにでたらめかを示す例を、MIYADAI.com Blog から引用します。


その点、昔の米国は凄かったよ。例えばGHQの“ホワイト・パージ”。日本が内政外交上の無能力者になったのは米国による“ホワイト・パージ”による所が大きい。“レッド・パージ”は有名だけど、実は講和までの8年間に戦前までの右翼──国の成り立ちを真に知る存在──が根絶しにされたのは知られない。

(中略)

同じくGHQの指示でなされた“レッド・パージ”の目的は労働運動の弾圧で、GHQは思想弾圧すべからずと指示書を書いていたほどだ。ところが右翼の思想的鉱脈は完全に根絶やしにされた。結果、維新以降の国の成り立ち、特に「田吾作による天皇利用」の真実を、コミュニケートする機会が消えた。それ以降の右翼は戦前とは別物。右翼の下にヤクザがいるんじゃなく、ヤクザの下に右翼がいて政治家に使われるようになった。護国團の石井一昌元團長にそれを歎いたら「あんたが何とかするしかないね」と返されましたが(笑)。

(中略)

本質的な問いですね。「つくる会」の体たらくとは対照的な(笑)。なぜホワイト・パージされたか。日本の右翼が天皇制や国家権力に懐疑的な民権派をルーツとするからです。玄洋社黒龍会だね。それが亜細亜主義者の系列で、むろん天皇機関説。明治後半に隆盛した天皇国粋的な教学派はネタをベタと取り違えた小僧に過ぎないんだ。さてGHQは戦前右翼の復活で亜細亜主義による天皇相対化がなされるのを危惧した。「平和を願う天皇」を使って「安全なナショナリズム」を敷設するのが狙いだったからね。この「安全なナショナリズム」方針は大成功した。これは今でも参照にたる実績です。 
              
これは、対談での発言という事情を考慮しても、あまりにつっこみどころ満載の発言と言わざるをえない。まず、戦前のいわゆる右翼思想家の中で、明確に「天皇機関説」を述べたことがあるのは、若い頃に 『国体論並びに純正社会主義』 を書いた北一輝だけだろう。その彼ですら、中国での革命に挫折して帰国し、右翼思想家として名が売れるようになってからは、天皇機関説を公言することは一度もなかったのであり、宮台の発言はどう見ても史実に反している。


かりに百歩譲って、ここで宮台が意識しているのが、橋川文三が最初に提起し、松本健一あたりが引き継いでいる、昭和の超国家主義運動の中で見られたような「天皇の国民」から「国民の天皇」への変質といったことだとしても、それはすでに玄洋社とはなんの関係もないことだ。


つぎに「ネタをベタと取り違えた」「明治後半に隆盛した天皇国粋的な教学派」というのは、おそらく憲法上の天皇の位置付けを巡って美濃部達吉と論争した上杉慎吉を指すものと思われる。しかし、昭和の軍国主義は、明治憲法の解釈としていったんは定着していた美濃部の天皇機関説に対する、軍人や黒龍会などの民間右翼の攻撃から始まったわけであるから、ここでも彼が言っていることはまったくもって意味不明と言わざるを得ない。


そもそも、玄洋社の源流は薩長と同様の勤皇派だった「筑前勤皇党」であり、その思想は、水戸学の影響を受けた薩長の討幕派と、なんら変わりはない。高杉晋作ら、薩長の志士をかくまったことでも有名な歌人、野村望東尼などがこのグループに含まれる。


玄洋社が当初民権派としてスタートすることになった遠因は、幕末の黒田藩内での弾圧で勤皇派が壊滅し、維新に乗り遅れたことにある。その結果、彼ら福岡の士族は、政府の要職から完全に閉め出され、必然的に藩閥政府に対する反対派の位置に立つことになってしまった。


その場合、政府に対する反対運動の旗印としては、当時、自由民権というイデオロギーしかなかったのは、近代日本史の常識である。したがって、そのことに過剰な意味付与をすべきではない。このときに学んだであろう「国民」という思想が、生来の士族的精神とともに、その後の彼らの対外的活動を支えてきたということは言えるだろう。しかし、彼らが「天皇制に懐疑的だった」などとは、どういう意味で言っているのかは知らないが、どこをどう叩いても出てくる話ではない。


ただし、玄洋社よりもさらに復古的な熊本の神風連の系統や、一種の東洋的無政府主義者ともいえる久留米出身の権藤成卿などのように、明治政府による近代化そのものに否定的なグループであれば、「国家権力に懐疑的だった」といえなくはない。しかし、彼らは玄洋社とは系譜も思想も異なっており、またさして勢力があったわけでもないだろう。


右翼の亜細亜主義が理念として一定の正当性を持っていたのは、せいぜい彼らが民間グループとして、政府や軍部から一定の自立性を保っていた時期に限られる。国家の利害がそこにからんできた場合、亜細亜主義であれ、戦後の東側の「社会主義的連帯」であれ、<連帯>という理念がいかに空洞化し建前化していくかは、多くの歴史が証明しているところだ。宮台は、安易な「亜細亜主義の再評価」などを唱える前に、まずそのような歴史をきちんと直視すべきではないかと思う。


なお、彼は「ホワイトパージ」などという言葉を使って、GHQによって戦前右翼が根絶やしにされたかのようなことを言っているが、これも怪しい話である。占領下で、右翼に対する公職追放言論統制が行われたことは事実である。また、鬼畜米英から親米への転向をよしとせずに、自ら沈黙した右翼思想家もいないわけではない。戦前からの右翼思想家が、少なくともマスコミのような表舞台からは姿を消さざるを得なかったこと、また、彼らの名前や思想について語ることすら「タブー視」されたような時期があったことも確かだろう。


しかし、安岡正篤笹川良一のような戦前からの右翼が、各所各所で隠然たる勢力を保ち、歴代の自民党政権に対しても一貫して大きな影響力を持ってきたことは否定できない事実である。戦前と戦後では、右翼の思想と活動に大きな違いがあり、一種の断絶が存在するのも間違いない。だが、それは彼ら自身の選択の結果というべきであって、アメリカの占領政策とは別の話だろう。


GHQによって右翼の「大量処刑」でも行われたのならともかく、たかだか8年の占領ぐらいで、それまで綿々と続いてきた政治的伝統を「根絶やし」にすることなど、そもそもできるはずがない。それこそ、愚かな妄想というものだ。思想を「根絶やし」にすることがそんなに簡単に可能だとしたら、歴史など成立するはずがないことぐらい、ちょっと考えれば誰でも分かる話である。


どうも、彼は様々な右翼思想家を十束一からげにして、その中から自分の論理構成に都合がいいところだけを、あちこちからつまみ食いにしているように見える。彼の難解な社会学理論には興味ないが、ここで彼が言っていることが、朝日新聞などを悪玉にするよくある議論のかわりに、たんにGHQを悪玉にしているだけの通俗的な「陰謀史観」に過ぎないことは明らかだろう。高尚な理論を語るのは結構だが、実際の歴史認識がこの程度だと、あらあらとしか言いようがない。


戦前の右翼思想家や亜細亜主義者の中にも、魅力的な人物や個性的な思想家がいたことは否定しない。しかし、その再検討を言うのなら、少なくとも史実はもちろん、橋川文三竹内好などによる、これまでの研究成果ぐらいは踏まえるべきである。一知半解な思い付きなどからは、なにも生まれはしないだろう。


以上、おしまい


http://d.hatena.ne.jp/koukandou/20070504
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070705
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070702