「声なき声」はどちらを向いているのか

憲法改正の手続きを定める「国民投票法」が、参議院での採決によって成立した。

この法律に最低投票率の定めがないことについては、以前から様々な批判が提出されている。これについては、反対派によるボイコット戦術を防止するためといった説明もあるようだが、政府与党の本音が、投票率の低さによって投票そのもののが不成立に終わることを危惧したものであることには、議論の余地はないであろう。

しかし、そのことは、現在の政治家が国民を信頼していないということ、すなわち「憲法の改正」という最も重要な国家の課題についても、国民の意識なんてどうせたいしたことはないだろうなぁ、と考えていることを表しているのではないだろうか。国民を信頼しないところに、はたして民主主義が成立するのだろうか。ここには、国民投票の有効・無効といった問題を超えた、もっと重要な問題が隠されているように思う。

このことは、この法律についての大きな問題として、依然として残されたままのように思う。なぜなら、かりに少数の賛成投票によって憲法の改正が成立した場合、そのことは結局、成立した改正の正当性そのものに疑義がついて回るということになるのではないかと思うからである。

ところで、最低投票率の定めがない場合、少数の賛成票によって憲法改正が可能になってしまうという批判がある。それはそうなのだが、だからといって必ずしもそれによって憲法改正のハードルが下がったとは、必ずしも言えないのではないかという気がする。

というのも、裏を返せば、同じように、少数の反対意見によって改正を否決することも可能だからである。いわゆるがちがちの改憲派と、がちがちの反改憲派による勝負という場合、どちらがどれほどの勢力を持っているのだろうか。これは、正直に言って雲をつかむような話なので、私としてはなんとも判断のしようがない。

とはいえ、そのような場合、少数の反改憲派によって改憲を阻止することも、必ずしも不可能ではないように思う。私の実感としては、なにがなんでも賛成票を投じるという改憲派がそれほど多いとは、どうしても思えないからだ。しかし、むろん投票率の低さを前提に話をすることは無意味であろうし、そのようなことを期待すべきではないだろう。

話は変わるが、かつて、60年安保の時代、連日連夜、数万のデモ隊が国会を取り巻くという状況の中で、当時の岸首相が、「私は『声なき声』にも耳を傾けなければならぬと思う。新聞だけが世論ではない」「都内の野球場や映画館などは満員でデモの数より多く、銀座通りも平常と変わりはない」というようなことを言ったことがある。

この岸の「声なき声」という発言は、当時いろいろな反響や反発を呼んだようであるが、必ずしも間違っているわけではない。当時は、長島茂雄が巨人軍の新たなスターとして売り出されている真っ最中なのであったのだから、岸元首相が言ったとおり、実際に安保改定阻止を訴えるデモの最中にも、後楽園などには多くの野球ファンが詰め掛けていたのだろう。

民主政治というものは、良かれ悪しかれ普通の人々による多数の「声なき声」によって動かされていくものだ。それはある意味、空気のようなものといってもいいだろうが、であればこそ、その動向に対しては、鋭敏な感受性と理解が必要だろう。

その意味において、私は 「ぼくがどこに正当性を求めるかということになるのですけれども、…… 大衆の動向に追従していくのではなくて、それと緊張関係にあって対決しながら、どこまでもくっついていくべきだ」 という、かつての吉本隆明の発言を踏まえた、加藤典洋の 「左翼性からだけでなく、戦後からも遠く離れ、自分の理念の場所からではなく、普通の人の普通の不安と希求の場所から憲法9条について考えることが、これを擁護するにあたり、必要なことであると、思う」 という『論座』6月号での発言を全面的に支持したい。

10年前の加藤典洋高橋哲哉の論争については多くは知らないが、超越的な「正しさ」のみを追求する議論としてではなく、「今とここ」という具体的な歴史的社会をめぐる限りでは、私は加藤の議論のほうにこそ、正しさがあるのではないかと思っている。