ディーツゲン 『人間の頭脳活動の本質』

ヨーゼフ・ディーツゲン(1828〜1888)という人の 『人間の頭脳活動の本質』(岩波文庫)という著書に、次のような一節がある。

近代のある生理学者は次のように言っている。「分別のある人なら誰でも、精神力の座を、ギリシア人のように血液の中に、中世におけるように松果腺の中に求めようとは思わない。 ―― そうではなく、われわれはみな、神経系統の中枢にこそ動物の精神作用に関する有機的中心が求められる、と確信している」

いかにもそのとおりである。書くことが手の作用であるように、思惟は脳髄の作用である。しかし、手の研究と解剖とが、書くとはなんであるか、という課題を解きえないと同じように ―― 脳髄の生理学的研究は、思惟とはなんであるか、という問題に近づくことはできない。われわれは解剖刀をもって精神を殺すことはできようが、しかし発見することはできない。
                             『人間の頭脳活動の本質』P.28

ディーツゲンという人は、なめし皮工場を経営する一家に生まれ、高等教育はいっさい受けず、独学で学びながら哲学や経済学の研究をした人である。

彼の業績は、エンゲルスにより 「この唯物論弁証法は、…… われわれとは独立に、いなヘーゲルからさえも独立に、ひとりのドイツの労働者ヨゼフ・ディーツゲンによっても発見された」フォイエルバッハ論)と賞賛されている。

また、マルクスは彼について、「彼は 『思惟能力』 にかんする草稿の断片をおくってきたことがある。それは多少の混乱やおびただしい重複があるにしても、すぐれた点がたくさんあり、一労働者の独力の所産としては、驚嘆に値するものさえある」(クーゲルマンへの手紙)と書いている。

思惟はいうまでもなく脳という器官の作用である。しかし、その内容は単なる脳の生理的作用には還元されない。あたりまえのことだが、胃や腸のような消化器官が胃液や腸液を分泌するように、大脳は「思惟」や「認識」なるものを分泌しているわけではない。現代では、脳についての生理学的研究が飛躍的に進んでいるが、人間の「思惟」や「認識」についての研究はけっしてそのような生理学や解剖学に解消されはしない。

エンゲルスはディーツゲンについて、「『ドイツ人』労働者でなければこのような頭脳の産物を生むことはできない」と言ったが、それは単なるお国自慢ではなく、卑俗な生理学的唯物論に過ぎないフランス唯物論と、カントやヘーゲルの遺産を受け継いだドイツの唯物論の差異を指摘したものと言えるだろう。


ところで、関曠野は 『歴史の学び方について』 の中で、ことあるごとに 「コントとマルクスは」 というように二人を一緒くたにして論じている。

彼はその中で、たとえばコントの 社会学のような科学では、事象の根本的関係の直接研究によってではなく、人間に関する生物学的理論があらかじめ提供してくれる不可欠の基礎に立って、事象の根本的関係をア・プリオリに考え得るという特徴がある」(社会静学と社会動学)という言葉を引用している。

だが、そのようなア・プリオリな方法(先験的論理主義)こそ、マルクスによるヘーゲル法哲学と論理学に対する批判の根幹ではなかっただろうか。それは、マルクスを一度でもまともに読んだことがある者なら、誰でも知っている常識である。

そもそもコントが言うように、「事象の根本的関係の直接研究」 によらずに、「事象の根本的関係をア・プリオリに考え得る」というのであれば、マルクスはなぜ十年以上にもわたって、大英図書館に通いつめ、膨大な統計資料や報告書の類にまで目を通し、ロシアやインドの共同体など、際限のない研究を終生続けなければならなかったのだろうか。


関によれば、ベンサムもコントもマルクスも、まるで申し合わせたように労働者階級を改革者としての自分の潜在的同盟者と考えたが、それはなまじの余計な教養を身につけた他の階級よりは労働者階級のほうがたんなる生物に近く、それだけ彼らの理論に基づく社会の改革に適応しやすいという理由による」 のだそうだ。

これは、もうあきれてものも言えない。ならば、なぜベンサムもコントもマルクスも、都市の労働者よりももっと 「無知蒙昧」 で 「たんなる生物」 に近い農民を潜在的同盟者に選ばなかったのだろうか。革命後のレーニントロツキーをもっとも苦しめたのは、ロシアにおいてはそのような 「なまじの余計な教養」 など身につけていない 「たんなる生物」 に近い農民が圧倒的多数を占めていたという、動かしがたい事実ではなかったのか。


レーニンは、「量は少なくとも質の良いものを」 という彼が残した最後の論文で、こんなことを書いている。

この機構(革命後の国家機構のこと)を作り出すために、わが国にはどのような要素があるだろうか。たった二つである。第一に社会主義のための闘争に熱中している労働者である。この要素は、十分に啓蒙されていない。・・・

第二には、知識、啓蒙、教育という要素であるが、これは他のすべての国家に比べて、わが国には、おかしいほど少ない。


関は、なんの根拠もなくただ自分の偏見を語っているにすぎない。まったく、カニは自分の甲羅に似せて穴を掘るとはよく言ったものである。


言うまでもないことだが、どんな天才的人物にでも、一人でできることには限りがある。人間にはだれもが限界があり、誤りを犯す可能性を持っている。ましてや、100年以上前に生きていた人物の思想や理論が、現代にそのままの形では通用しえないことも明らかである。


だが、マルクスを乗り越えるというならば、まずマルクスがなにを考え、なにを言ったかを正確に理解することが最低限必要なことだ。『歴史の学び方について』 における関曠野マルクス批判は、とうていその水準に達していない。