「しょうがない」 の論理

「原爆を落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなと思っている」 という内容の、久間防衛大臣の発言があちこちで波紋を呼んでいる。


当初、「詳しいことは聞いていないが、米国の考え方について紹介したと承知している」 ととんちんかんなことを言い、問題視しない姿勢を示していた安倍首相も、党内の反発やこの発言が選挙に及ぼす影響を考慮したのか、久間大臣を官邸に呼んで、今後は発言に気をつけるよう厳重に注意したのだそうだ。

もっとも、それ以上の処分は必要ないとの立場は変えていないようだから、この口頭での注意にどれだけの意味があるのかはきわめて疑問である。予想以上に波紋が広がったことで、官邸としても、あわててなんらかの行動を示す必要に迫られたぐらいのことだろう。


松岡農水相のときもそうだったが、この人はどうも総理としての閣僚の任命責任というものを思い違いしているような気がする。首相ももちろんだが、各大臣は国民に対して責任を負っているはずである。内閣と内閣総理大臣は、与党や与党の支持者だけに責任を負っているわけではない。

したがって、問題を起こしたり、おかしな発言をしたりした大臣がいれば、野党の攻撃がどうだとか、マスコミの批判がどうだとかにかかわらず、自らが率先してなんらかの行動なり処分なりを行うのが指導者の務めというものだろう (ちょっと偉そう)。

ところが、安倍首相の発言は、いつも判で押したように 「問題ない」 の一言である。まるで、自分が任命した大臣を処分することは、自分の内閣、ひいては自分の地位、いやいや自分の面子に傷がつくことだ、というふうにしか考えていないようである。


「泣いて馬謖を切る」 というのはいささかおおげさだが、たとえ、自分が任命した人間であっても、その者が任命された職責にふさわしくない、その責任を全うするだけの能力を有していない、と判断したならば、新たな問題が起きる前に、自らの責任と判断で、その人間を更迭して別の人間と交代させるのが、上に立つものの責任というべきだろう。もっとも、上に立っているご本人に問題の認識がないのであれば、こんなことを言っても無駄かもしれないが。


いずれにしても、野党やマスコミから批判されたときに、この首相がとる行動や発言を見ていると、どうもこの人は根本的に子供じみているのではないかという疑念をぬぐえない。「問題はない」 といういつものせりふは、ほとんど脊髄反射的なものであって、国民に責任を負う者としての発言ではなく、たんなる野党やマスコミへの敵愾心だけにもとづいた発言のようにしか見えない。これは、ほとんどガキの喧嘩の論理である。


さて、久間大臣の発言についてだが、彼は原爆投下を 「正当化」 したわけではない。「しょうがない」 と言ったのである。「しょうがない」 とはどういうことかというと、「あれこれ言ってもしょうがない。起きたことはしかたがない」 ということである。


かつて、吉本隆明は 「日本のナショナリズムについて」 という論文で次のようなことをいったことがある。

 

 ところで鎖国下において純粋培養された近世ナショナリズム思想の核はなんであろうか? すでにみてきたとおり、そしておおくの論者たちも指摘しているように 「自然」 である。

 この日本的 「自然」 は、思想のはしごを下のほうへ下れば、生活思想そのものを動物的むしろ植物的にまで解体させるような山川草木・花鳥風月の 「自然」 であり、そして政治的思想にまで結晶すれば 「天皇制」 としてあらわれるような 「自然」 思想である。


つまり、そこでは歴史や社会といった人間の営みについての認識も、自然現象や自然の移り変わりと同じレベルにまで解体されるということだ。天変地異のたぐいが 「しょうがない」 ものとして観念されるのと同じように、人間の営みの結果である歴史もまた、「しょうがない」 ものとして観念されるということだ。


たしかに、天変地異は 「しょうがない」 ものかもしれない。しかし、それでも為政者ならば、まさかのときを想定して必要な準備をし、対策をたてておく責任がある。阪神大震災を例にとれば、地震そのものは 「しょうがない」 にしても、その後の救援や消火などのおくれは、「しょうがない」 で済まされる問題ではないだろう。

ましてや、「戦争」 や 「原爆」 は、自然災害ではない。これを、「しょうがない」 というのは、長屋の八つぁん熊さんならともかく、自衛隊という国内最大最強の武装組織 (在日米軍は除く) を統括する、政府のきわめて重要な閣僚のすべき発言だろうか。


「しょうがない」 という言葉は、一種の魔法の言葉である。従軍慰安婦南京虐殺のような問題についての海外からの批判に対する国内の反発も、ようするに 「起きたことはしょうがない」 という、きわめて日本人らしい考え方が根本にあるように見える。 「そんなことはしょうがない、なぜって戦争とはそういうものなんだから」 とか、「いまさらあれこれ言ってもしょうがない、当時はそういう時代だったのだから」 というわけだ。


関東軍が政府の意向を無視して、独断で大陸での戦争を開始し、次々と拡大していったときも、当時の国の指導者らは、結局 「しょうがない」 ということで、軍部の独走を追認し事後承諾を与えたのではなかっただろうか。

丸山真男が指摘したように、誰も責任を取らないという無責任な国家体制のもとで、戦争は一種の自然現象のごとく、「しょうがない」 ものとして始められ、なんの成算もないままにずるずると引き伸ばされていったのではなかっただろうか。

むろん、いまただちに現在の自衛隊がそのような独走を始めるとは思わない。しかし、「しょうがない」 などという、きわめて没主体的で無責任な言葉を大勢の聴衆の前で軽々しく発するような人間に、はたして防衛大臣という重要な職務が務まるものだろうか。これは非常に疑問である。


政府や政治家、財界人らは、一般の国民に対しては 「自己責任」 という言葉を投げるのがお好きのようだ。フリーターになるのも、ホームレスになるのも 「自己責任」 というわけだろう。しかし、そのようないっちょ前の社会人としての主体的な責任意識に一番欠けているのは、いったい誰なのだろうか。


追記:

結局、久間大臣は辞任することになったそうだ。まあ、これも 「しょうがない」 ことか。
後任は小池百合子環境大臣だそうだ、 ふーん。


http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20070703

http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20070704