安倍氏の行動に思うこと

安倍内閣の誕生が、前首相の肝いりによることは公然の秘密と言っていいだろう。自民党総裁選での安倍氏の圧勝は、表立っては当時の彼の国民的人気によるということになっているが、その人気も実際には前首相による様々な引き立てと演出によるものが大きい。

当時、小泉氏は谷垣・麻生両氏も総裁候補だなどと口先では言っていたが、前首相の 「意中の人」 が安倍氏であり、谷垣・麻生両氏は最初から人数ぞろえのための刺身のつまでしかなかったことは、まわりの者やマスコミも含めて誰もが知っていたことである

しかも、安倍首相は郵政選挙で与党が獲得した圧倒的多数という遺産までありがたく引き継いだのであるから、現内閣はまさに前首相によってすべてがお膳立てされた 「据え膳内閣」 だと言ってもいいくらいだ。

ここで、いささか付け焼刃的知ったかぶり的な岸田秀ふう精神分析を試みるなら、成立後の安倍内閣の様々な迷走は、この前首相にすべてがおんぶに抱っこという安倍内閣の 「出生トラウマ」 にいくらかの根拠があるのではと思うのだ。

これを一言で言うならば、安倍氏は自力で総裁・総理に選ばれたのではなく、なにもかもが前首相のお膳立てによるのであり、安倍氏の一挙手一投足は、そのことによるコンプレックスによって陰に陽に縛られているのではないのかということだ。

安倍内閣による衆参両院での強行採決は、少年法の改正や国民投票法、年金関連法、教育基本法と教育三法など、実に多数に上る。だが、このような相継ぐ強行採決の裏には、郵政選挙で反対派を公認しないだけでなく、多数の 「刺客」 を送り込むという非情さを見せた前首相以上の「強い指導者」として、おのれを顕示しなければならないという一種の強迫観念があるように思える。

このような相継ぐ強行採決が、国会の審議そのものをないがしろにした暴挙であることは言うまでもない。また、前首相より引き継いだ国会の絶対多数という優位を、期限切れとなる前に最大限に利用したいという政治的思惑もあるだろう。もちろん、そこで成立した様々な法律が今後どのように運用されることになるかも、非常に気になるところだ。

しかし、そのような暴挙を繰り返しているからといって、安倍氏はけっして「独裁者」ではないし、世論をすべて無視しているわけでもない。いや、世論の動向に対しては、ある意味、彼なりにきわめて過敏であるといってもいいだろう。

現在でこそ、数の力を背景にやりたいほうだいのように見えるが、いずれにしても選挙は避けられない。すでに参議院選が近づいているが、その結果によっては当然安倍氏の進退が問われることになる。また、いまでこそ圧倒的多数を誇っている衆議院も、いずれは選挙を行わなければならない。

亡き祖父の遺言 (?) を忠実に守る安倍氏としては、国民投票法成立だけで満足しているはずはなく、当然のことながら、少なくとも憲法改正の発議が可能となる三年後か四年後あたりまでは、政権を維持したいところだろう。だからこそ、彼としてはここで退陣に追い込まれるわけにはいかないはずだ。

安倍内閣の支持率が最初に下がり始めた頃、前首相が 「目先のことに鈍感になれ。鈍感力が大事だ。支持率が上がったり下がったりするのをいちいち気にするな」 と忠告して、かの渡辺淳一大先生の 『鈍感力』 という本を薦めたという笑い話がある。

だが 「国民とは日々の人民投票である」 というルナンの言葉をもじれば、まさに 「世論調査とは日々の人民投票」 なのである。そもそも安倍氏の総裁就任が世論調査での高い支持率を背景にしていた以上、安倍氏としては世論調査による支持率の高低に 「一喜一憂」 せざるを得ないはずである。

年金問題に対する政権と与党の対応は、実に迷走をきわめたあきれたものであるが、その迷走の裏には、彼の焦りはもちろんだが、「国民の期待」 になんとしてでも応えなければならないという、安倍氏なりの強い 「責任感」 があるのだろう。

とはいえ、一国の指導者という仕事は主観的な 「責任感」 や 「使命感」 だけで務まるものではない。野党から攻撃され、マスコミから批判されて支持率が低下すればするほど、妙な 「責任感」 に燃え上がり、国会の圧倒的多数を頼りにおかしな法律の強行採決を繰り返すという人にも困ったものだ。

だが、その底には、「強力な指導者」 としての 「断固たる態度」 を示しさえすれば、大衆の支持は得られるはずだというかなり偏った思想があるようにも思われる。