中野重治 『五勺の酒』

三笠宮家の寛仁親王アルコール依存症であるということが、宮内庁から発表された。

この人の父親は昭和天皇の弟で、戦後大学に入りなおして歴史学を学び、古代オリエント史の研究者としても有名だった人だ。「紀元節」 の復活に反対したこともあって、「赤い宮様」 とも呼ばれ、一部の勢力からはさかんに攻撃されたこともあったそうだ。その息子である寛仁親王のほうは、「ひげの殿下」 などとも呼ばれていた。

報道によれば、同親王は昨年喉頭がんを発症し、以来入退院を繰り返していたのだそうだ。今回、発表されたアルコール依存症というのも、たぶんそのあたりのことと関係があるのではないかと思う。


ところで、ほんらい、こういう情報は患者のプライバシーとして保護されることではないのだろうか。宮内庁がどういう意図や基準でこのことを発表したのかは知らないが、いささか妙な感じがする。

彼がもし皇族などでなければ、たとえ元首相のような有力な政治家などであっても、たぶんこのような発表が行われることはなかっただろう。つまり、皇族にはいっさいのプライバシーがないということだ。


いうまでもないことだが、ひとがどのような家庭に生まれ、どのような境遇で育つかは、その人にはいっさい責任のないことだ。アルコール依存症におちいることも、その人がおかれている状況によってはしかたがないこともあるだろう。

皇族を自分たちの政治的利益のために利用する人間も愚劣だが、こういう発表を利用して 「ただの類人猿として一生を宮内庁病院で終えるのだ」 などとくだらぬ当てこすりを言っている自称 「左派」 ブロガーも愚劣というほかはない。

「左派」 を称するのは人の勝手だが、あるひとがアルコール依存症におちいったことを揶揄するような愚劣なことを書いている人間は、ただおのれの品性の下劣さを満天下にさらしているにすぎないことぐらいは認識すべきだろう。


終戦直後に発表された 『五勺の酒』 という短編の中で、中野重治は次のようなことを主人公に言わせている。
 

 このことで僕は実に彼らに同情する。このことでといってきちんと限定はできぬが、要するに家庭という問題だ。つまりあそこには家庭がない。家族もない。どこまで行っても政治的表現としてほかそれがないのだ。ほんとうに気の毒だ。羞恥を失ったものとしてしか行動できぬこと、これが彼等の最大のかなしみだ。個人が絶対に個人としてありえぬ。つまり全体主義が個を純粋に犠牲にしたもっとも純粋な場合だ。・・・

 皇后は彼女の責任で笑っているのではないのだ。こっち向きなさい。そこで笑ってください。写真屋の表情までのさしずの図以外のなんでこれがあるだろう。

 せめて笑いをしいるな。しいられるな。個として彼らを解放せよ。僕は共産党が、天皇で窒息している彼の個にどこまで同情するか、天皇天皇制からの解放にどれだけ肉感的に同情と責任を持つか具体的に知りたいと思うのだ。


雅子さんの病状に関連した皇太子の発言が波紋を呼んだことも記憶に新しい。女系天皇を認めるかどうかといった議論は、秋篠宮家の男子出生でいつのまにやら雲散霧消してしまったが、昔も今も彼らは自分自身や家族のことを、自らの意思では決められないという状況には変わりない。

皇室というものに、かつてのような尊崇感情を持つ者がはたしていまどれだけいるだろうか。右翼やナショナリストは、ただ自分の勝手な政治思想のために彼らを利用しているか、すでに死にかけた 「伝統」 なるもののあるべき姿を彼らに一方的に投影しているに過ぎない。

有栖川宮」 夫婦を自称した詐欺師の事件もあったが、あの詐欺師カップルに騙された連中は、ただ自己の空疎な 「虚栄心」 のために 「宮家」 というブランドに目がくらんだだけだろう。いずれにしても、彼らを 「制度」 や 「虚像」 としてではなく、生きた人間として尊重している者など、身近に接している人らを除けば、皆無に等しいだろう。

愛子さまー」 などと街頭で声をかけている者らは、まだわずか5歳にすぎないこの幼い女の子にやたらめったらとそのような嬌声をあびせ、ばちばちと写真を撮ることが、幼い女の子の心にどのような負担をかけているかなど、まったく考えていない。ようするに、そのような人々にとっては、「愛子さま」 もアザラシのたまちゃんも同じなのだ。


中野が上のようなことを書いたときから60年以上が経過している。しかし、彼らをめぐる状況はちっとも変わっていない。いや、むしろこの人たちにとっては、ますます生きにくさが増しているのではないかとすら思う。


http://d.hatena.ne.jp/shuimu/20070623