的外れかもしれないけれど

たぶん20年ぐらい前のことだと思う。正確な言葉は忘れてしまったし、どこで書いていたのかも覚えてないが、吉本隆明が、資本主義社会というのは、歴史の無意識が生んだ最高傑作だ、というようなことを言ったことがある。

とんちかんな左翼評論家の中には、この言葉をとらえて、吉本もとうとう転向したみたいな阿呆なことを言った連中もいたが、吉本のこの言葉はたんに冷厳な歴史的事実を指摘しているにすぎない。たとえば、かの有名な 『共産党宣言』 には、次のような一節がある。

 ブルジョアジーは、歴史上、最高の革命的役割を演じた。
 ブルジョアジーは、かれらが支配の座についたところでは、すべての封建的、家長的、牧歌的な諸関係を粉砕した。かれらは、人間を彼の生まれながらの上長者に結び付けていた、複雑な封建的つながりを容赦なく引き裂き、人間と人間との間には、裸の利害関係、無情な 「現金勘定」 のほかには、なんのつながりも残さなかった。かれらは、敬虔な熱中や騎士的な感激や俗物市民の哀愁の神聖な発作を、利己的打算の冷水の中でおぼれさせた。

 かれらははじめて、人間の活動がどんなことを実現しうるかを示した。かれらは、エジプトのピラミッド、ローマの水道、ゴートの大寺院とはまったくちがった驚異をなしとげたし、かれらは、民族移動や十字軍とはまったく違った遠征を遂行した。

 ブルジョアジーは、生産諸用具を、したがって生産諸関係を、したがって社会関係の総体を引き続いて革命することなしには生存することができない。反対に、古い生産様式を変えないで維持することが、これまでのすべての産業階級の第一の生存条件であった。生産の引き続く変革、あらゆる社会状態の不断の震動、永遠の不安定と運動が、ブルジョア時代を、それまでのすべての時代と区別する特徴である。

 ブルジョアジーは、世界市場の開拓によって、すべての国の生産と消費を超国家的なものとした。反動家たちにとってたいへん嘆かわしいことに、ブルジョアジーは、産業の国民的な地盤をその足元から取り去った。

マルクスは資本主義の破壊的な性格とともに、その革命性をもつねに指摘している。1853年の 『イギリスのインド支配』 という論文では、「問題は、人類がその使命を果たすのに、アジアの社会状態の根本的な革命なしにそれができるのかということである。できないとすれば、イギリスが犯した罪がどんなものであるにせよ、イギリスはこの革命をもたらすことによって、無意識に歴史の道具の役割を果たしたのである」 と書いた。

彼は、この論文について、エンゲルスにあてた手紙の中で、「この隠された戦争を僕は僕の第一のインド論文の中で続行した。そこではイギリスによる土着工業の破壊が革命的として述べられるのだ。これは彼らにとっては非常にショッキングだろう」 とも書いている。


現代において、資本主義に対する理論的な批判は、ある意味で簡単なことだ。なぜなら、原理的に言う限り、労働力の商品化、すなわち人間の商品化という、資本主義の根本的な矛盾に対する批判は、100年以上も前に完成しているからだ。だが、理論的な批判と実践的な批判とは、全然別の課題である。

たとえば、資本主義に対するそのような批判を、すべての人が完全に理解し納得したととしても、「では明日から資本主義をやめますか」と問うた場合、はたして全員から 「イェーイ」 という答がかえってくるだろうか。たぶん、そんなことは、よほどのことがないかぎり、ありえないだろう。理論的な理解と実践の間には、大きな溝が広がっている。実践とはつねに一種の決断であり、不確定な未来に対する跳躍であるからだ。

いうまでもなく、これは日本を含めた戦後の資本主義が、現実に飢餓の駆逐と大衆の生活の向上にそれなりに成功してきたからだ(これに対しては、それは「低開発地域」からの収奪によって可能になっているのだ、というような反論もあるだろうが、いまはそのことは問わない)。少なくとも、資本主義は問題を抱えながらも、それなりに機能している。資本主義が様々な問題を抱えながらも、今日まで存続しているのは、たんなる偶然のせいではない。資本主義経済というものには、破壊的性格だけでなく、高度の順応性と適応力が備わっていることも否定できない事実だろう。

すでに破産してしまった、ソビエト流の国家所有型 「社会主義」 に対して、マルクスが構想していた社会主義はそのようなものではないと批判することは可能だ。たぶん、そのような批判は間違っていないだろう。だが、国家所有ではない共同所有による社会主義が実現可能であるとしても、そのような社会が、大衆に対して今日の資本主義経済が提供しているのと少なくとも同等の生活を提供しうるものであるかどうかは、誰にも分からない。

むろん、いつの時代にも約束された未来などは存在しないということも言える。たしかに歴史には、そのような未知への命がけの跳躍とでもいうべき行為がいくつも記録されている。しかし、そのような過去を指摘することと、そのような跳躍を、いま、ここで、行うということとは、これまた別の話である。


内田さんは、こんなことを書いている。

 貧乏コンシャスネスは「万人が平等」であるという市民社会の原理の「コスト」であり、市場経済の駆動力である。それゆえ、これから先も日本人はますます貧乏になり、資本主義はますます繁昌するであろうと私は思う。

 まあ、それも仕方がないか、というのが私の考えである。私たちの社会を住み易くするための原理として、とりあえず近代市民社会市場経済以外の現実的選択肢を思いつけない以上、貧乏くらい我慢するしかあるまいと私は思っている。

                          「こんなことを書きました」

だとすれば、資本主義経済という狂った経済社会の中で、人はどのようにして正気を保ち狂わずに生きていけるか、ということもまた、資本主義批判ということと同様に重要な課題だろう。いや現実的な意味においては、それ以上に重要な無視しえない問題であるとも言えるのではないだろうか。「拝金主義」 に対する内田樹のしつような批判の根底には、たぶんそういう問題意識が潜んでいるように思える。


付言しておくが、これはたんに苦しむ病人にアヘンを与えるというような意味で言っているのではない。ただ、いまここで、根本的な治療法が見つからないとしたら、どれだけ有効であるかは分からないにしても、とりあえず病人が死んでしまわないように延命手段を考案し講じることも、必要なのではないのかということだ。むろん、資本主義という怪物の暴走を抑えるための様々な具体的な方策や、対抗的な政治勢力、社会運動などの存在意義を否定しているわけでもない。