内田樹 「格差社会って何だろう」

今日もお天道様はたいへんお元気、現役時代の中畑のように絶好調である。よりによって、こんな暑いさなかに、内田さんは 「格差社会」 という現在もっともホットな問題に手を突っ込んだものだから、なにやらたいへんな騒ぎになっている。なんとブックマークが278もついている(まだ増えるかも)。

例によって内田さんの話はあっちこっちに脱線しているが、ここでの内田さんの議論の中心は次の箇所にあると思う。

格差社会」論というのは、言い換えると「金のことをつねに最優先で配慮する」ことこそが「政治的に正しい」ふるまい方であるとする判断に同意署名することである。
「金のことをつねに最優先に配慮する人間」は私の定義によれば「貧乏人」であるので、格差社会の是正のために「もっと金を」というソリューションを提示する人々は、論理的に言えば、彼ら自身「貧乏人」であり、その読者たちもまた「貧乏人」であり続ける他ないということになるであろう。
                             格差社会って何だろう


ここで内田さんが言っていることは、実に単純明快だ。ようするに、「格差社会」 という問題は 「もっと金を」 ということだけで解決するのか、ということだ。その限りにおいて、内田さんの言っていることはしごくもっともだと思う。

たぶん、いまとりあえず緊急に必要な対策ということで言えば、低所得層に対する支援だとか、セーフティネットの構築だとか、誰が考えてもそう違いはないだろう。ただ、それだけでいいのか、それで今の社会が抱えている問題は解決するのか、という問いが、このエントリで内田さんが言っていることだろう。たしかに、ここでの議論の進め方には、いささか乱暴なところがなくはない。しかし、この問いには十分な根拠があるように思う。

あと、このエントリでいちばん反発を買ったのは、「ご飯を食べる金がないときも、家賃を払う金がないときも、私はつねにお気楽な人間であり、にこにこ笑って本を読んだり、音楽を聴いたり、麻雀をしたりしていた」 というような、自分の体験を披瀝したところのようだ。

まあ、ここはいささか自慢話ふうに聞こえなくもない。とくに、問題の渦中にいるような若い人などから、気楽なことを言うな、みたいな反発が出てくるのは当然だとも思う。しかし、ここはべつに目くじら立てて批判すべきところでもないだろう。

そもそも、議論というものは、ただ悲壮感を丸出しにして、深刻ぶっていればいいというものではない。「お前は危機感が足りん」 みたいな論難は、むしろなにやら精神主義的なにおいがする。そういう批判のしかたは昔からあるもので、あまり感心しないのだけどね。


追記:

私はシュシャーニ師のような人に生活できる程度の年金が支払われる社会を実現することよりも、師のような人が十分な知的敬意を以て遇される社会を実現することの方が、ずっと大切ではないかと思う。

シャシューニ師という人は、内田さんの師であるレヴィナスのお師匠なのだそうだ。ここで内田さんが言っていることは、単に知的な人物に敬意を払えというような俗っぽい話ではない。たぶん、内田さんはここで、彼にとってのラジカルなユートピアを語っているのだ。


追記の追記:

内田さんはこう書いている。

どなたも「格差がある」ということについてはご異論がないようである。
だが、私はこういう全員が当然のような顔をして採用している前提については一度疑ってみることを思考上の習慣にしている。


ある命題をひっくり返すということは、それだけでは単に石ころをひっくり返すようなことで、たいして意味のあることではない。それだけならば、「正しいこと」 と 「間違っていること」 が単に入れ替わっただけのことにすぎない。ここで内田さんが語っていることは、そんなに単純なことなのだろうか。

内田さんがここで指摘しているのは、ある命題は正しく、その反対は間違っているという先験的に二分化された思考の単純さなのではないだろうか。

そもそも、現実の世界には、絶対的に正しいことなど存在しない。三浦つとむが指摘したように、どんなに正しそうに見える命題にも、必ずなんらかの 「間違い」 が付随しているものであり、その逆もまたしかりである。であればこそ、真理が誤謬に転化するということもある。それが 「弁証法」 というものだ。

「正しい」 とされていることを 「一度疑ってみる」 ということは、そこに付随している 「間違い」 に自覚的になれ、ということではないのだろうか。「正しさ」 を自明のこととしてしまえば、そこで思考は停止してしまう。そこを 「一度疑ってみる」 ことで、はじめて思考というものはその先へと進むのではないだろうか。