フォイエルバッハによる宗教批判の論理

ドイツにとって宗教の批判は本質的には済んでいるのであり、そして宗教の批判はあらゆる批判の前提である。


これは、マルクスが25歳で書いた 『ヘーゲル法哲学批判序説』 の冒頭の一文である。ここで彼が言っている 「宗教の批判」 とは、いうまでもなくヘーゲル哲学の解体において重要な役割を果たしたルートヴィヒ・フォイエルバッハの 『キリスト教の本質』 を指している。(ちなみに、この人の父親はアンセルム・フォイエルバッハという刑法学者で、カスパー・ハウザーという、正体不明の奇妙な少年についての本を書いたことでも知られている。話としては、こっちのほうがはるかに面白いのであるが)

では、「宗教の批判はあらゆる批判の前提である」 とはどういう意味なのだろうか。 フォイエルバッハは、上にあげた 『キリスト教の本質』 の中で次のように書いている。

 

 人間は自己の本質を自己の内に見いだす前にまず自己の外に移す。人間にとっては、自分の本質は最初他の本質 (存在者) として対象になる。・・・・
 宗教 ―― 少なくともキリスト教 ―― は、人間が自分自身に対して取る態度である、またはいっそう正しくいえば人間が自分の本質に対して取る態度である。しかしここでは自分の本質に対してとる態度は他の本質 (存在者) に対する態度として現れる。神的本質(存在者)とは人間的本質以外の何物でもない。またはいっそうよくいえば、神的本質(存在者)とは人間の本質が個々の人間 ―― すなわち現実的肉体的な人間 ―― の制限から引き離されて対象化されたものである。いいかえれば神的本質(存在者)とは、人間の本質が個人から区別されて他の独自の本質(存在者)として直観され尊敬されたものである。そのために神的本質(存在者)のすべての規定は人間の本質の規定である。 


このようなフォイエルバッハの宗教批判が、宗教をたんなる迷信として退ける、単純な「合理主義」的立場とはまったく異なるものであることは明かだろう。彼が言っていることは、宗教には人間の本質が表現されているということだ。したがって、そのような宗教あるいは宗教的心情は、ただたんに否定されるものでも、打ち捨てられるべきものでもない。

もともと、人間は直接自己を認識することはできない。自己を意識するためには、人間はまず自分自身を、いったん自己の外部に表出しなければならない。これは、人間の精神的肉体的なすべての活動に共通する構造であり、ヘーゲルによって 「疎外」 と名付けられた論理である。 

 ここで誤解を避けるために付言すると、この場合の疎外という概念は、たとえば初源の無垢な状態や本源的に統一された状態からの堕落であるとか逸脱、転落といったような意味ではない。また、なにやら悪いこと、間違ったことというような否定的ニュアンスを含んでいるわけでもない。ここでは、疎外という概念は、人間の活動全般に共通する構造を表す、普遍的で一般的な概念として使われている。 

だが、フォイエルバッハは上のような宗教の本質に関する議論を、さらに次のように展開する。 

 

 しかし、ここで直ちに本質的に次のことが注意されるべきである。すなわちそれは、本質から見て神が人間的であればあるほど、外見上は神と人間との間の区別がそれだけますます大きいこと、いいかえれば宗教に関する反省 ―― 神学 ―― によって神の本質と人間の本質との同一性・統一性がそれだけますます大きく否定されることであり、そして人間に対してまさに人間的なものとして人間の意識の対象になるところの人間的なものが軽視されるということである。・・・・ 

神を富ませるためには人間は貧困にならなければならず、神が全であるためには人間は無でなければならない。


宗教的意識が絶対化されたところでは、人間は自己が生み出した宗教によって支配される。これは歴史において、何度も繰り返されてきたことであるし、現代においてすら、カルト宗教といった形で、しばしば見られることだ。そこでは、神あるいはその代理である教祖は絶対であり、信者はまったくの無である。このようなフォイエルバッハの宗教的疎外論が、青年時代のマルクスに与えた影響の大きさは、たとえば 『経哲草稿』 の労働の疎外に関する次のような一節から明瞭に読み取れる。

 労働者は、彼がより多く富を生産すればするほど、彼の生産が力と大きさを増せば増すほど、それだけいっそう貧しくなる。労働者はより多く商品を創造すればするほど、彼はそれだけいっそう安い一個の商品となる。事物世界の価値増大に、人間世界の価値下落が直接比例して進む。

ここでのマルクスは、広松が言うように、ほとんどフォイエルバッハエピゴーネンにしか過ぎないように見える。ここで彼がやっていることは、フォイエルバッハによる 「天上の批判」 を、「地上の批判」 へと移しかえることである。

このような疎外論は、いくらか形を変えてではあるが、後期のマルクスの中にも生き続けている。たとえば、 『資本論』 の第一篇 「商品と貨幣」 の第一章 「商品」 には、次のような注が挿入されている。

 このことは、商品と同じようにいくらか人間にもあてはまる。人間は鏡を持って生まれてくるものでも、フィヒテ流の哲学者として、我は我であると言って生まれてくるのでもないのであるから、まず他の人間の中に自分を照らし出すのである。ペーテルという人間は、パウルという人間にたいして自身に等しいものとして相関係することによって、初めて自分自身に人間として相関係する。しかしながら、このようにしてペーテルにとってはパウルなるものの全身が、そのパウル的肉体性のままで人間という種の現象形態と考えられるのである。


ここで彼が言っていることは、上で引用した 「人間は自己の本質を自己の内に見いだす前にまず自己の外に移す」 という、フォイエルバッハの言葉と同じである。人間の自己意識=自己認識は、他者の存在なしには成立せず、他者を媒介にして発展するということだ。

フォイエルバッハによって提出された 「人間的本質の疎外」 としての宗教批判という論理は、経済学においては 「労働の疎外」 として商品や資本への批判となり、人間の共同的社会的な能力の疎外の問題としては、国家や政治に対する批判となる。その意味で、マルクスの経済批判と国家批判は、いずれもフォイエルバッハの宗教批判の論理の変奏であるということができる。

つまり、マルクスがやったことは、思想としてみた限りでは、フォイエルバッハの論理を別の方向へと差し向けることにすぎない。であるからこそ、彼は 『ヘーゲル法哲学批判序説』 の冒頭で、「宗教の批判はあらゆる批判の前提である」 という言葉を書き付けたのだろう。ただし、それは問題解明のための方向や道筋を示すだけであって、いわばそのための長い道のりのスタート台に立っただけのことである。

どんなに優れた思想家であっても、1人の個人によって行われることは、歴史の中で蓄積されてきた様々な先行者による成果を受け継ぎ、それをわずかに一歩あるいは二歩進めることに過ぎない。それは、思想でも科学でも、同じことである。自分だけの完全なオリジナリティを誇る思想などというものは、みずから1個人のたんなる思い付きでしかないことを告白しているのと同じである。

マルクスによって、「科学的世界観」 としての 「弁証的唯物論」 が創造されたなどという話は、せいぜいロシアやそれ以下の、思想的な後進国でしか通用しない馬鹿話というべきだ。