「食べず嫌い」についての考察

仕事の合間の暇つぶしに、「広辞苑」で「食べず嫌い」という項目を引いてみたらこんなふうに書いてあった。


   食べないで、わけもなく嫌うこと。また、その人。くわずぎらい。


まあ、あらためて調べるほどのことも書いてなかったので、ちょっとがっかり。 
それはそうと、食べず嫌いというのは、人間なんかにも言えることで、なんか怖そうなやつだとか、嫌なやつだとか思っていた人が、付き合ってみると、実は心の優しい人であったり、よく気のつく細やかな人であったりすることはよくある。それから、どうせ下らないに決まっていると思ってずっと読みもしなかった人の作品が、実はすばらしいものだということに後で気づくなんてこともある。

わが青春のころを顧みれば、野坂昭如という人がそうであった。60−70年代というのは、野坂が一番売れっ子だった時代で、サングラスをかけて野末陳平とコンビを組んで漫才をやったり、レコードを出してテレビで歌ったり、あげくのはては参院選に出馬したりと、まさに八面六臂の大活躍であった。

野坂の文学はどちらかというと大衆小説に分類されていて、当時は「平凡パンチ」などあちこちの雑誌にいろいろ書いていたはずだ。やたらと背伸びをしたがる嘴の青い文学青年としては、そんなテレビで馬鹿をやっている、ただの目立ちたがりの通俗小説家の書いた小説なんか、読むだけ無駄だよとばかり、大江健三郎だの安部公房だの、「純文学」ばかりをありがたがって読んでいたのであった。

ところが、これが大間違いであった。30半ばを過ぎてたまたま、野坂の「骨餓身峠死人葛」(ほねがみとうげほとけかずら)を読んだのだが、ひっくり返ってぶったまげた。野坂という人がこんな凄い小説を書く人だとは、まるで思いもしなかった。三島由紀夫が天才と評したのも当然である。たとえば、この短い小説の最後はこんなふうに終わっている。

 「万歳」 バッジが頓狂な声で怒鳴り、「これで市もあらたなる発展ば約束されたちゅうこったい」 つぶやく、「うんにゃ、葛坑は、火やら水やら、よう役に立ってくれますたい」あらためて、馬蹄形のアーチをながめた、そのほんの眼と鼻の坑道の底に、屍蝋と化した死体の、幾十と重なりあい、寄りそっていた、そのいずれにも、またあの死人葛は水草のごとくにまといつき、ゆらゆらと、ふたたび花咲かせる場所を求めて、生きものの如くゆらめき、死人はそれまでしずまっていたのだが、今、急に水位がかわったから、ふわりと互いの位置が変わって、ぶつかりあいまたつと離れてたわむれる如く、それぞれゆるやかに踊りながら、少しずつ浮上をはじめる、その先頭に、たかをの姿があった。


不思議なリズムを保ちながら、うねうねとうねるようにどこまでも続く独特な文体、猥雑な言葉の中から浮かび上がる凄絶な美、そして虐げられた者、薄幸な者らへの共感に満ちた視線。

こんな人を今まで何十年も知らずにいたのかと思ったら、とてつもなく激しい後悔に襲われた。そこで、あわてて近所の書店に駆けつけたのであるが、時すでに遅し。野坂の本は大半が絶版になっていたのであった。しかたなく、古書店めぐりをはじめ、数年かけて集めたのが、「真夜中のマリア」や「エロ事師たち」、「受胎旅行」、「とむらい師たち」、「砂絵縛後日怪談」など、わずかに数冊。それでも、「受胎旅行」に収められた「マッチ売りの少女」を読んだときは、まさに涙が出るほどの感動であった。

話はとぶが、「歎異抄」の中に、親鸞が弟子の唯円に「浄土に行きたければ人を千人殺してみろ」と命じる場面がある。当然ながら、唯円はめっそうもないとばかりに、「私には1人だって殺せません」と答える。それを受けた親鸞の答えはこうだ。


 これでわかっただろう。どんなことでも自分の思いどおりになるのなら、浄土に往生するために千人の人を殺せとわたしがいったときには、すぐに殺すことができるはずだ。しかし、思いどおりに殺すことのできる縁がないから、一人も殺さないだけなのだ。
 自分の心が善いから殺さないわけではない。殺すつもりがなくても、百人や千人の人を殺すことだってあるのだよ。


ずいぶん、物騒な話だが、ようするに世の中には機縁というものがあるということだ。きっかけさえあれば、人はなんでもやる。人殺しだってやる。自分が今人殺しでないのは、自分が善人だからじゃない、ただそういう機縁になかっただけのことだ。親鸞が言っていることはそういうことだ。

そういう物騒なことでなくても、たしかに生きている中では、さまざまな機縁というものがある。だから、食べず嫌いの人に、これは体にいいぞとか、おいしいぞとか言って説き伏せる必要もないし、ましてや体を押さえつけ口をこじあけてまでして、むりやり食べさせる必要などはない。なにか機縁があれば、そのうちに自分で食べてみて、ああ、うまいと気づくかもしれないのだから。その機会が最後までなかったのであれば、それはそれでしかたがない。残念ながら、世の中には、縁なき衆生というものもあるのである。

それにしても、野坂を読まないうちに死ななくてよかった。これだけは神様に感謝しなくちゃならない。