あらあら、まあまあ、おやおや

首相が辞めるそうだ。あらあら、まあまあ、おやおや、といった感じである。 しかも、その理由というのが、アメリカとのお約束が果たせないということと、民主党の小沢党首に党首会談を断られということだそうで、二度びっくりである。

もし、本当にインド洋でのアメリカ艦船への海上給油や 「テロとの戦い」といった問題が、国民の世論よりも重大な、一国の政権を投げ出さなければならないほどのことだと考えていたとすれば、この人はほとんど妄想の世界の中に住みながら、「国政」 を指導していたことになる。これは、なんというか、ずいぶん恐ろしいことである。

もっとも与謝野官房長官は、「健康問題」 を理由に挙げている。たぶん、それもあるのだろう。 肉体的な問題だけでなく、参院選挙以来、精神的にかなり参っていたことは間違いない。

言うまでもないことだが、ほんとうは選挙直後に、辞めるべきだったのだ。たぶん、あのとき、思わずその場の勢いで 「辞めない!」と言ってしまい、それからずっと、「なんであんなことを言ってしまったんだろう」 とか 「あのとき、すっぱり辞めておけばよかったのに」などと、夜も寝られないほど、後悔していたのではないだろうか。表面的には強気の姿勢を見せていても、心の底では辞める機会と、その理由をずっと探していたのではないかという気がする。 

とにかく、政権に対する事前の期待と、その後の評価に、これほど落差があった例も近頃では珍しい。これは、一言で言えば、「虚像」 と 「実像」 の食い違いということになる。スクリーンやテレビ画面で、「虚像」を演じることを商売にしている人たちであれば、そういうことはありふれたことだろうし、政治家も、ときには国民向けに、意識的に 「虚像」を演じるようなことがないわけではない。

しかし、この人の 「虚像」 は、彼自身の意識的な選択ではなく、前の首相によって作られた部分がどう見ても大きい。「偉大なる前任者」 に押し付けられた、自分の 「虚像」 を守り、それに追いつくことに、とうとう疲れ果てたということが真相のようにも思える。

がらにもなく、いろいろと突っ張って見せたりもしていたが、どう見ても、この人は前任者に比べて線の細い人である。それは、むろん普通の人間としてみれば、必ずしも悪いことではない。ロシアのプーチンみたいな男は、たしかに 「強力な指導者」 ではあるかもしれないが、やはり歓迎したい人物ではない。

結局、この人はどう見ても、政治家には向いていないのだ。本人も、もうそろそろそのことに気づいて、このさい、議員もすっぱり辞めてしまったほうがいいのではないかと思う。将軍を辞め、鳥羽伏見で負けてからは、すっかり政治から手を引いて、後半生をただの人として気楽に生きた慶喜という先輩もいることだし。

人間、親の言葉をただ守り続けて、親が死んだあとまでも、親がしいたレールの上を走っていてばかりでは、しかたがないだろう。

それはともかく、最後に妙な置き土産を残すことだけは、このさい勘弁して欲しい。