秋は本当に来るのだろうか

今日も暑い。連日、最高気温が30度を超える真夏日が続いていて、あちこちで最も遅い真夏日の記録を更新しているのだそうだ。アスファルトの道路には、くっきりとした影が灼きついている。 
それでも、さすがに7, 8月に比べれば太陽は低くなっており、おかげで影が伸び日陰も広がっている。日陰に入っていれば、ときおり吹く風で少しは涼しさを味わうことができる。やはり、まだ目には見えないけれど、秋はすぐそこまで来ているのだろうか。

ところで、昨日広島高裁で行われた 「光市母子殺害事件」 の差戻し公判で、遺族の本村洋氏が、「君の犯した罪は万死に値する」 という旨の意見陳述を行った。

この事件では、被告の元少年は犯罪事実そのものについては争っていない。つまり、被告が事件の実行者であることは確定しているということだ。

差戻し控訴審で、被告の弁護団が交代してから、被告の主張が変わったことで、この裁判は大きな注目を浴びている。テレビでおなじみの橋下弁護士が、弁護団への意味不明な懲戒請求を不特定多数の人々に呼びかけて、あげくのはてに 「業務妨害」 で訴えられたことも記憶に新しい。

事件そのものについては、詳細を知らぬ外野の人間が憶測や推測だけでなにかを言うことは基本的に控えるべきだろう。また、遺族である本村氏の感情について、あれこれ言うことも控えたい。

しかし、公判で遺族が意見陳述をするということには、どうも引っかかるものがある。言うまでもないことだが、この事件の場合、遺族の本村氏は犯行現場に居合わせたわけでも、被告の元少年と事件以前に面識があったわけでもない。

このような、裁判での遺族の意見陳述が認められたのは、平成12年の刑事訴訟法の改正によるものだ。これによって、次のような条文が刑事訴訟法に追加された。

第292条の2

裁判所は、被害者等又は当該被害者の法定代理人から、被害に関する心情その他の被告事件に関する意見の陳述の申出があるときは、公判期日において、その意見を陳述させるものとする。  
                       (以下2項から9項までは省略)

裁判というものの一般的な目的について、一言でいうことは簡単ではない。しかし、その最大の目的が、「真実の追究」 であることに異論を挟む人はおそらくいないだろう。であれば、犯行現場を目撃したわけではない遺族の意見陳述は、この目的に関する限り、いかなる意味も持たないし、いかなる役割も果たしえない。

近親者を殺害された者としては、被告の死刑を望むという気持ちは分からないでもない。たしかに、罪と罰は等価でなければならないというのは、古来からの法の原則のひとつである。だが、たとえ、被告を死刑にしたところで殺されたものが生き返るわけではない。

そもそも、個々の犯罪被害者や遺族の感情というものは、どんなものとも交換しえないただひとつのものである。それは、心的な外傷を残す性的犯罪やしつような暴力の被害者の場合にも言える。だからこそ、そのような遺族や犯罪被害者の感情が法廷に持ち出されれば、これに異議を唱えたり距離をとることはきわめて困難である。

被告人の利益のために、そのようなことをあえてする者には、それこそ 「人非人」 のレッテルがはられるだろう。実際、被告の元少年弁護団には、そのような非難がすでに投げつけられている。

このような固有なものとしての遺族の感情を法廷の場に持ち込むことは、公正かつ公平でなければならない近代裁判にとっては、自殺行為なのではないだろうか。ほんらい、「犯罪被害者や遺族に対する配慮」 と 「真実の追究」 とは、別々の問題のはずである。この二つを混同してしまえば、公正・公平な裁判という、最も重視されなければならない原則そのものが危うくなりはしないかと思う。