不思議の国 「日本」

フロイトの 『トーテムとタブー』 を読んでいたら、たまたまフレーザーの 『金枝篇』 の 「タブー」 についての章からの、次のような引用を見つけた。

 

 太古の王国は専制主義であり、したがってその人民は、ただその支配者のためにのみ存在するという概念は、ここでわれわれが見ている君主国にはまったく適用できないのである。それどころか君主国では、支配者は自分の臣下のためにあるにすぎない。

 王が自分の地位に基づく義務を果たして、自然の運行を彼の人民の利益のために調整するかぎりにおいて、王の生活は価値をもつにすぎない。王がこの義務を怠ったり放りだしたりすると、彼はそれまでしばしばその対象にされていたのに、その配慮や献身や宗教的尊敬などが、憎悪や軽蔑に変わってしまうのである。王は惨めにもその地位から追われ、命だけでも助かれば喜んでよいのだ。今日はまだ神とあがめられているが、明日には犯罪者として打ち殺されることが彼の身におこるかもしれない。


引用文では明記されていないが、ここでフレーザーが言及している 「君主国」 とは、植民地化される前のアフリカや太平洋の島々などに存在していた、タブーと呼ばれる風習を持っていた原始的な部族国家のことを指しているのだろう。


つい先日、被告人全員の無罪が確定した、鹿児島の志布志でおきた「選挙違反事件」 で、容疑者の足をつかんで、彼の親族の名前を書いた紙を踏ませるという 「踏み字」行為を行った、鹿児島県警の元警部補が在宅起訴されたそうだ。確かに、孫の名前などが書かれた紙を無理やり踏まされるというのは、その孫をふだんから可愛いがっている人にとっては、あまりいい気持ちはしないだろう。

しかし、このような奇抜な取調べ手段を考案したこの警部補は、明らかに言葉や書かれた文字には不思議な霊力がこもっているという、 「言霊信仰」 の持ち主であるように思われる。


靖国東条英機広田弘毅A級戦犯が祀られたということも、おそらくは、占領からの独立回復後に復権を果たし、総理や大臣、国会議員などにまでのぼりつめた、岸信介やその他の人々の、彼ら処刑者に対するやましさのようなものの表れなのだろう。ようするに、彼らは東条や広田らが怨霊となって、平安の御世の道真や将門、崇徳上皇らのように災いをなすことを恐れたのである。


かつて、北一輝は 「今日の国体論者は武士道と共に起れる武門を怒り、武門起りて皇室衰ふと悲憤慷慨す。しかも萬世一系の鉄槌に頭蓋骨を打撲せられて武士道と共に天皇陛下万歳を叫びつつあり。土人部落なるかな」 と、明治政府から発禁に処せられた著書 『国体論および純正社会主義』 で書いた。


まことに、現代日本という国は、最先端の科学と技術を誇る消費資本主義という段階にまで達する一方で、原始的な心性があちらこちらに残っているという 「不思議の国」 なのであり、世界的にもまれな、人類学的にも貴重な社会であり国家なのである。


テレビの紀行番組やクイズ番組などで、チベットの活仏信仰だとかが紹介されると、奇妙な信仰や風習が残っている、ずいぶん遅れた地域のように思える。しかし、今回の首相辞任表明と、その後の騒動を見ていた外国の人々の目には、ひょっとすると日本もそのように見えているのかもしれない。

もっとも、だからといって、なにも恥ずかしがる必要はないだろうが。


追記(2008/5/21)
でも、「水伝」なんてものが流行るのは、やっぱりまずいかも