「陰謀論」 と 「未開の思考」

アルカイダによる9.11の同時テロ事件が起きてから、すでに6年以上が経過している。この事件がきっかけとなって、ブッシュ政権が 「反テロ戦争」 を旗印にし、アフガニスタンイラクでの軍事行動を始めたことはむろん言うまでもない。

ところで、この事件については、ブッシュ政権かその周辺のグループによる 「自作自演」を主張する、いわゆる陰謀論が根強いようである。その根拠としては、この事件に関する公式発表には、様々な 「疑問」が存在すること。また、この事件をまるで待っていたかのように、アメリカの軍事行動が始められたことなどがあげられているようだ。

こういう論理は別に目新しいものではない。ルーズベルトは世界大戦参加のきっかけを得るために、真珠湾攻撃をわざと見逃したのだ、というような話は昔からあるし、歴史的事実としては、ビスマルクがフランスとの開戦のために起こしたという 「エムス電報事件」 などの例もある。

しかし、ただの電報偽造と、多数の自国民を巻き込む事件の 「自作自演」とは、いうまでもなく別の話である。戦前の日本の軍部は、出兵の口実を作るために、しばしば大陸で事件をでっちあげたが、さすがに帝都の真中の官庁を自分で爆破するというようなことはしなかった。「9.11陰謀説」 とは、まさにそれに匹敵するような主張なのである。

そもそも、そのような陰謀というものは、旧ソ連や現在の北朝鮮のように、専制的・独裁的な国家で起こることが多い。それはいうまでもなく、そのような国家の支配体制はきわめて閉鎖的な集団によって作られており、国民や報道機関による監視、機密情報の漏洩などの心配をする必要もなく、一方的な情報だけを流すことが可能だからである。

むろん、アメリカの場合でも、諜報機関などが陰謀を企んだことがないわけではない。しかし、かつてのチリやキューバカストロ政権などに対する陰謀のように、外国でなんらかの事件を起こすことと、国内の、それもニューヨークのど真ん中、あるいは首都ワシントンで、飛行機突入だかビル爆破などという「陰謀」 を企むこととは、これまた全然別の話である。


つまり、そのような 「陰謀論」 を真面目に主張するには、選挙という「民主的手続き」 で選ばれた政権担当者やその周辺のグループが、一般の国民 = 民衆とはまったく異なった、爬虫類のように冷血であり、通常の人間には理解不能な心性を持ち、いっさいの秘密も漏らさぬほどに団結した、まさしく異星人のごとき特別な集団だとでも仮定することが、まず前提として必要なのである。

内田樹氏は、『私家版・ユダヤ文化論』 の中で、次のように書いている。

 

 ある破滅的な事件が起きたときに、どこかに「悪の張本人」がいてすべてをコントロールしているのだと信じる人たちと、それを神が人間に下した懲罰ではないかと受け止める人たちは本質的に同類である。

 彼らは、事象は完全にランダムに生起するのではなく、そこにはつねにある種の超越的な(常人には見ることのできない)理法が伏流していると信じたがっているからである(そして私たちの過半はそのタイプの人間である)。

 だから、陰謀史観論は信仰を持つ者の落とし穴となる。神を信じることのできる人間だけが悪魔の存在を信じることができる。


 
ある 「結果」 が起きたときに、その 「原因」 はなにかと考えることは、確かに科学的思考の端緒ではある。しかしながら、そのような 「因果論的思考」 が、そのままでつねに科学的なわけではない。

たとえば、リンゴが落ちるのを見て、その原因は万有引力にあるとしたニュートンの思考は科学的だろう。しかし、今の私が 「不幸」なのはなぜかという問いに対して、それは 「水子のたたり」 や 「前世のむくい」 のせいだ、などという答を出すのは、むろん科学的ではない。


マルセル・モースやレヴィ=ストロースの先輩格に当たる、レヴィ・ブリュルという人の 『未開社会の思惟』 という著書には、次のようなことが書いてある。

 

 まず第一に、死はけっして自然事ではない。これはオーストラリア蛮族、南北アメリカ、アジアの文化度の低い諸部族間に共通な信仰である。

 「ムガンダ族の頭には自然的原因による死というようなものはない。病も死もともに、ある精霊の作用の直接的結果である」

 「この地方全体を苦しめている最大の災いは呪術の信仰である。アフリカ人は、死をいつも変死であると固く信じている。彼らは二週間前に健康であったものが、病にかかって死に掛けているときには、ある有力な呪者が干渉して病気にかからせ、魔法で生命を絶ちつつあるのだと想像せずにはいられない」


こういう思考が、けっしてそのような 「文化度の低い諸部族間」 に限らないことは、かの 『源氏物語』 を開いても分かるだろう。そこでは、六条御息所という女性が、なんとおそろしくも、生霊となって恋敵に取りついて殺しちゃうのである。


9.11 事件のような前代未聞の事件の場合、公式報告に様々な矛盾や疑問がかりに存在したとしても、そのこと自体は、別に不思議でもなんでもない。なにしろ、事件そのものがきわめて異例であり、現場の破壊も検証が困難なほどにすさまじいのだから。そもそも、人間による限られた調査や分析では、間違いや矛盾など、どんな場合にもつきものというものだ。

日本では、そのへんのごく普通の交通事故ですら、しばしばおかしな報告書が作られる。だが、だからといって、そのような交通事故について、「警察の陰謀だ!」などと大騒ぎする人はいないだろう。そんなものは、たいていの場合、捜査員の思い込みや怠慢、能力不足などのせいにすぎない。

どうも、「9.11陰謀説」 というのには、レヴィ・ブリュルが引用しているような、「未開の思考」に近いものがあるようだ。人間は、いつでも単純な間違いをしうる存在である。当然ながら、世の中には、たんなる偶然にすぎないこともあるし、様々な偶然、故意、過失、無意識の行為等の重なりによって、誰も意図していない思いもかけぬ結果が生じることもある。

そういった可能性を考慮せず、ありとあらゆるところに、誰かの 「陰謀」 などといった 「架空の原因」 を見つけなければ納得できないというのは、まさにあらゆる 「死」の理由に誰かの 「呪い」 を想定してしまうことと同様の 「未開の思考」 というべきだろう。


「9.11陰謀説」 に、なにか検討に値する問題があるとすれば、それは、そのような説そのものではなく、むしろ、なぜそのような陰謀説が、現代社会において一部の人間の心を強く捉えて離さないのか、ということのように思える。つまり、それは肥大した強力な現代の 「国家」 や、その支配層と目されている人たちに対して、強い疎外感や無力感を抱いている人たちが、アメリカにおいても少なからず存在しているということを意味するのだろう。

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20080129