ホワイトクリスマスはすでに死語である

 今日は久しぶりにいい天気だった。空にはほとんど雲がなく、歩いていると汗ばんできて、とうとうセーターも脱いでしまった。「ホワイトクリスマス」 どころか、「インディアンサマー ・ クリスマス」 という言葉のほうがぴったりするような一日だった。

 クリスマスは、一般にはイエス・キリストの誕生を祝う日ということになっているが、「聖書」 を読む限り、実際の誕生日がいつだったかははっきりしない。イエスの誕生について一番詳しく描かれているのは、新約聖書に納められた 『マタイによる福音書』 である。

 

エスヘロデ王の代に、ユダヤベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。

 そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。彼らは王に言った、「それはユダヤベツレヘムです。預言者がこうしるしています、『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」

 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。

                                                マタイ福音書2章1-11

 いっぽう、イエスが厩で生れたという話は、『ルカによる福音書』 の方に出てくる。それによると、夫のヨセフが妊娠中のマリアを連れて、ヨセフの出身地であるベツレヘムに住民登録のために帰省している最中に、「マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである」 ということだ。

 というわけで、イエスが実在の人物だったとしても、12月25日がその誕生日であるということには、根拠はあまりないようだ。現代では、ローマ帝国滅亡後の西方教会による、北方のケルト人やゲルマン人への布教の過程で、彼らによって祝われていた 「冬至祭」が、教会の暦に取り入れられたというのが、クリスマスの起源に関する有力な説のようである。

 いろんな宗教の教えがごちゃまぜになることは、「シンクレティズム」 と呼ばれる。明治新政府が出した 「神仏分離令」 によって、神社と寺院が別々に分けられる前の、「神仏混交」 とか 「神仏習合」 などと言われる状態がそうである。

 こういう 「シンクレティズム」 という現象は、教義が不純だとかで、お偉い学者さんとかには、あまり評判がよろしくない。しかし、クリスマスの起源や、竜を退治したとかいう様々な聖人伝説などを見ると、キリスト教だってけっして例外ではない。

 新しい宗教を広めるとき、もともとそこに存在する土着の宗教と正面から敵対するのは、広める側にとってもあまり賢いことではない。平安から鎌倉の頃に広まった 「本地垂迹」 説のように、土着の信仰を取り込むことで、既成の宗教に配慮するといったことは、そういう場合によく見られることだ。

 また、そのような宗教の混交は、一般信徒である民衆の側から、自然発生的に起こることもある。キリスト教が厳しく弾圧されていた時代にも、マリア様を観音様に見せかけて信仰を守り続け、その結果、もとの姿からは著しく変容してしまったというような例もある。

 いつだったか、NHKの 「世界遺産」 シリーズで、メキシコにある 「グアダルーペ寺院」というキリスト教会が紹介されているのを見たことがある。この教会は、もともとアステカ時代の古い寺院の跡に建てられているのだそうで、虐げられてきた貧しい先住民系の人々らによって熱烈に信仰されている、「褐色のマリア」 という像で有名なのだそうだ。

 映像では、教会の前の石畳の広場を膝立ちでゆっくりゆっくりと進む、信徒の姿が映されていた。その姿は、五体投地によって聖地を巡るチベットの巡礼者ともよく似ていた。そこに表されているのは、民衆の祈りであり、希望であり、感謝の気持ちなのだろう。

 どんな権力者も、どんなに強大な組織も、人間の心まで完全に支配することなどはできない。白人植民者から押し付けられた、「キリスト教」 という外来の宗教すらも、虐げられた民衆らによって、自身の苦しみを訴え、自身の希望を託す対象として読み替えられていく。

 それは、遠くアフリカから連れてこられた、アメリカの黒人奴隷やその子孫たちの場合でも、同じだろう。世界はつねにそのように重層的にできているのであって、けっして 「支配者」 や 「隠れた組織」 の意思だけで動いているのでも、その意図にそってのみ動いているのでもない。