世界を動かしているのは「悪意」ではない

振り返ってみると、「陰謀論」 の誤りと、その危険性について、ずいぶんとごちゃごちゃ書きまくってしまった。なにしろ、クリスマスについて書き出した記事まで、最後は 「陰謀論」 批判という結論になってしまったくらいだ。

陰謀論」 にはまりやすいのは、ナイーブな人が多いと書いたけれど、もうひとつ付け加えることがある。それは、根は同じことだが、「陰謀論」 にはまりやすい人の多くは、世界を動かしているものは、人間の 「悪意」 であるといった発想に捉われているということだ。

たしかに、世界は不条理であり、様々な 「暴力」 や 「不正」、「悪」 に満ちている。しかし、その多くは、誰かのことさらな 「悪意」 によって生じているわけではない。

一昨日、パキスタンでブット元首相が爆弾テロによって暗殺された。帰国直後にも爆弾で狙われ、本人は無事だったものの、周囲に多数の死者を出していた。そのことから考えると、彼女の暗殺は、いわば時間の問題だったかのような感すらある。

そのような状況の中でも、大衆の前に姿を現し続け、公然とした政治活動をやめようとしなかった勇気は、彼女の政治信念などに対する評価を超えて、強く賞賛されるべきものだろう。もっとも、彼女の支持者でもないのに事件の巻き添えになった人にとっては、そんな言葉は慰めにもならないだろうが。

事件の直接の実行犯が、巷間言われているような 「イスラム過激派」 であることは、間違いないだろう。ただ、ひょっとしたら彼女の政敵である、現在のムシャラフ政権がなんらかの形で関与している可能性というのはあるかもしれない。

言うまでもないことだが、「自爆テロ」 というような、自らの命を顧みない方法で暗殺を決行した犯人が、ただの 「悪意」 や 「計算」だけで動いていたわけはない。彼には彼なりの、強い 「使命感」 と 「正義感」があったのだろう。むろん、それはけっして手放しで肯定されるべきものではないだろうが。

「悪」 は必ずしも 「悪意」 から生れるものではない。それは、たとえば 「この国を今の混乱から救える者、この国の政治を担える者は、自分しかいない」 というような、愛国心に基づいた、強い使命感から生れたりもする。

そのような使命感にかられた人間にとっては、自分に対する批判者は、すべて国家の混乱を意図している 「悪者」 であり、方法を問わず、排除すべき対象であるというように見えても不思議はない。

文化大革命」 を発動して、劉少奇ら、資本主義の復活をもくろむ 「走資派」 の打倒を若者らに呼びかけた、晩年の毛沢東がそうだったし、おそらくは、独裁志向を強めている現在のプーチンの胸のうちも、それと似たようなものなのだろう。

多数の 「異教徒」 や 「異端派」 を弾圧し殺害した、ヨーロッパ中世の 「十字軍」 にしても、その行為は多くの場合、「純粋」な宗教的動機から発している。むろん、なかには、そこに便乗して、自分の名前を挙げようとか、一旗上げてやろうとかいう、いささか 「不純」な人間もいはしただろうが。

ブッシュにしても、また彼を支えている支持者らにしても、「世界を野蛮なテロから守らなければならない」 とか、「キリスト教文明を世界に広めなければならない」 というような 「使命感」 に駆られているのだろう。

「正義」 と 「正義」 がぶつかるなかで、この世に 「正義」 は1つしかないと考え、自分の 「正しさ」を疑わない人間は、当然のことながら、自分の敵を動かしているものは、なんらかの 「悪意」であると決め付けることになる。いや、そのような人間には、そういうふうにしか考えられないのだ。そこから 「陰謀論」 へは、ほんの一歩である。

その点では、世界中に 「文明世界の破壊を狙うイスラム原理主義者の陰謀」 が存在すると考えているブッシュ政権も、9.11同時多発テロは、「世界の支配と利権を狙うブッシュ政権による自作自演の陰謀だ」 と考えている人々も、同じなのである。

むろん、人間を動かしているものはけっして 「正義感」 や 「使命感」 などの 「善意」 ばかりではない。そこには、個人的な利益や名誉、他人を支配することに対する欲望なども存在はするだろう。

しかし、これは良くも悪くもまさに人間の 「煩悩」 のようなものであるから、「悪意」 とばかりは言えない。ただ、人間は自分の行為を正当化し、合理化するなんらかの 「根拠」 を持っているときには、かえってそういう 「煩悩」 の誘いにものりがちなのである。

たとえば、 「オレオレ詐欺」 をはたらいて高齢者を騙している若者らにとって、そのような行為は、おそらく立派な 「ビジネス」 なのだろう。だから、彼らもそのような 「ビジネス」を離れた日常では、ごく普通のどこにでもいる青年であり、ひょっとしたら親切で優しい青年である可能性するある。むろん、みんなそうだとは言わないが。

あの 「ユダヤ人虐殺」を遂行したアイヒマンのような人間も、家庭に帰れば妻や娘を愛するよきパパであったり、芸術を好む、洗練された 「高尚」な趣味を持つ人間であったりもする。人間はけっして自分が思っているほど、終始一貫した存在でもないし、ただひとつの 「人格」しか持っていないわけでもない。

なにしろ、世の中には、バイクにまたがったり、車のハンドルやカラオケのマイクを握っただけで、人格が変わる、 というような人種も存在しているそうだから。

世界を動かしているのはけっして悪意ではない。そして、本当の困難は、そのことを認めることから始まるのだろう。