すべての 「行為」 は政治的である

 なんだか、ずいぶんおっかないタイトルであるが、この場合の 「政治的」というのは、政党だとか政治家だとかが関係するような、厳密な意味での 「政治」ではなく、家庭の中での夫婦の争いや、学校、会社、同好会、その他いろんな組織や団体で、ごく普通に起こるもめごととか、勢力争いだとかを含めた広い意味で使っている。

 さて、なんでもよいが、なにか問題が発生し、抜き差しならぬ 「対立」 が生じた場合に、いっけん局外の第三者という立場から、「どっちもどっちだよ」 みたいな発言をする人をよく見かける。

 なるほど、「対立」 がにっちもさっちも行かず、しかもなんらかの 「解決」 を緊急に要するような場合には、そういう第三者的な立場からの裁定というのも、確かに必要ではある。

 世の中の裁判所というものはそういう目的のためにあるのだし、企業どうしの契約などでは、紛争が生じた場合の解決方法などについて、仲裁人の選定だとか仲裁の進め方だとか、いろんなことが事細かに定められているものだ。

 いうまでもないことだが、裁判所がそういう権限を有していることは法律で決まっていて、その権限には基本的に誰もが服さざるを得ない。また、仲裁人による和解や仲裁のような場合には、当事者どうしがまず仲裁人の選定について、あいつはいやだとか、こいつがいいとか、ぐちゃぐちゃ言いながら、最終的に合意することが必要である。

 たとえば、喧嘩の真っ最中に、いきなり第三者が現れて、「待った、待った、その喧嘩、おれが買った」などと、かっこつけて割って入ったところ、両方から邪魔者扱いにされて、袋叩きにあってしまったなんて話もよく聞く。もっとも、その結果、もとの喧嘩が収まって、両人が仲良くなったのなら、それはそれで、仲裁に入った者としては本望なのかもしれない。

 要するに、なにが言いたいのかと言うと、仲裁者としての権限を行使するには、まず両方の当事者から、その資格と裁定のためのルールについて、同意を得ることが必要なのだということだ。

 そうでもないのに、いきなり第三者が現れて、当事者の同意も得ずに、なにか勝手な 「発言」 をはじめれば、それはもうすでに 「局外中立」 でも 「公正な第三者」 のものでもない。

 発言者は、その行為によって、すでにじゅうぶんに問題に巻き込まれた 「当事者」 になっているのであって、その発言はメタな立場にある 「公正な第三者」 によるものではなく、その人自身の一方的な意見と、一定の立場の表明にしか過ぎなくなってしまう。

 ましてや、当事者のスタンスをまったく無視したうえに、個別の問題の具体的な内容や時系列的な過程ともまったく無関係なルールを勝手にこしらえ、当事者の承認もなく事後的に持ち出して当事者を裁いてみせたところで、本人の満足以外になんの意味もあるまい。

 それでも、あえてなにか言いたいというならば、「公正中立な第三者」としての立場など表明せずに、最初からよく考えて、自分の立場を鮮明にしたうえで発言したほうがよい。自分でも気付かぬうちに、あとでぽろりと馬脚を現してしまうぐらいなら、そのほうが本人の信用にとっても、はるかによいことだ。

 メタな立場にあるかに見える 「公正中立な第三者」 という、いっけん 「非政治的」 な旗印は、当人の意思がどうであれ、多くの場合、どちらを支持するかを明瞭にした旗印よりも、はるかに 「政治的」 に機能するものなのだ。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20080116/1200411423