オッカムも罪作りなことを言ったものである

 「オッカムのかみそり」 という言葉がある。オッカムという人は、13世紀から14世紀にかけてイギリスで活躍した、いわゆるスコラ哲学者の一人であるが、本名はウィリアムという。オッカムというのは、もともと彼の出身地なのだそうで、ウィリアム・オヴ・オッカムという呼び方は、正確に訳すと 「オッカム村のウィリアムさん」 となる。

 こういう呼び方は、かの 「モナリザ」 で有名な、ルネサンス時代の万能の天才 レオナルド・ダ・ヴィンチもそうで、この名前も正確に訳すと、「ヴィンチ村のレオナルド」 ということになる。つまりは、「ペンギン村のあられちゃん」 などという呼び方と同じである。

 「オッカムのかみそり」 というのは、本人の言葉で言うと 「必要が無いなら多くのものを定立してはならない」 ということらしいが、普通は、「仮説をたてるなら、ややこしいものより単純なもののほうがいい」 ぐらいの意味で使われている。

 たしかに、ある現象を説明するのに、ややこしい仮説と単純な仮説の二種類があった場合、単純な仮説のほうがよさそうに見える。ややこしい仮説を検証するのは、単純な仮説を検証するよりも面倒であるし、なんといっても、ややこしいことを考えるのは頭が疲れるものである。

 この格言の 「正しさ」を説明するときによく引き合いに出されるのが、コペルニクスの地動説である。プトレマイオス以来の天動説が、惑星の複雑な運動を説明するために、「周転円」 という仮説 (惑星は小さな円を描きながら、地球の周りを回っているという理論)を導入することで、どんどん複雑化していったのに対して、コペルニクスの地動説は、きわめて単純な仮説で星の運動を一挙に説明できる。 おおっ、なるほど、目から鱗が! というわけである。

 しかし、よく考えてみると、この 「オッカムのかみそり」 という格言は、単に、あんまり複雑に考えすぎるのはよくありませんよ、という、思惟経済上の指針にすぎないのであって、それによって、単純な仮説のほうの優位が保証されているわけではない。

 「地動説」 と 「天動説」の問題にしても、どちらでも天体の運動を説明できるのなら、仮説としての権利と資格はほんらい同一のはずである。実際、この勝負が最終的に決着したのは、万有引力の法則を説いた、ニュートン力学の登場によってであって、たんに理論としての 「単純さ」 というだけで勝敗が決まったわけではない。

 極端なはなし、「仮説は単純なほうがいい」 というだけであれば、物質の運動を説明するのに、ニュートン力学だの相対性理論だのといった、ややこしい理論を提唱するよりも、「すべては神の思し召しです!」 といったほうがよっぽど簡単である。

 同様のことは、進化論についても言えるのであって、「突然変異」 だとか 「淘汰圧」だとかいうことを、ぐだぐだと時間をかけて研究するよりも、「すべての生物は神様が創造したのです!」といったほうが単純である。なにしろ、こういった場合、「全知全能の神」というたった一つの仮説を持ち出せばすべてが説明できるのだから、これ以上単純な仮説はない。

 音速の単位として名前が残っているマッハという人も、この 「オッカムのかみそり」 を盾にとって、原子や分子の実在性を否定しようとしたが、これも結局のちに誤っていたことが証明されている。

 自然界においてすらこうなのであるから、大勢の人間が、それぞれの意志を持ちながら、がやがやとひしめいている社会においては、ますますそうである。ものごとはけっしてそんなに単純ではないのだから、「オッカムのかみそり」 などという格言をおいそれと持ち出すのは、かえって誤りのもとになる。

 いわゆる 「陰謀論」 というのもこれとよく似ている。かげで誰かがすべてを統制している  「陰謀」 という仮説を持ち出せば、ただの偶然や、様々な人の意志が絡み合った結果として生じる、複雑な社会現象のすべてが単純かつ一挙に理解できるというわけだ。

 もっとも、実際には、「陰謀」 という仮説が成立するには、小さな仮説がいくつも必要なのだが、これは 「陰謀」 というひとつの大きな仮説に内包されているため、「陰謀論」 者やその信奉者たちには、全体でひとつの仮説のように見えるのだろう。それに、単純さを好む人たちは、もともとそういったことはあまり気にしないもののようである。

 ようするに、世の中には単純な仮説よりも、複雑な仮設のほうが正しいこともけっして珍しくはないのである。複雑に考えるということは、たしかに頭が疲れることではあるが、なんでもかんでも単純化すればよいというものではない。

 それにしても、なにかことが起こると、すぐに裏に隠れた意図みたいなものを勘ぐって、あちらこちらで妙なことを触れ回っている人たちには、ほんとうに困ったものである。この人たち、他人の 「悪意」 にはやたらと敏感なくせに、自分が発している 「悪意」 にはまったく気付いていないようだ。