「陰謀論」と「疑似科学」の相関性

 新年早々、一部ブログ界をにぎわした 「水伝」 騒動について、批判を受けた側の中に、あの批判を行った連中は 「陰謀論」 批判を展開した者らと同一であり、その本当の狙いは 「9.11自作自演」 説を封殺することにあるといった声があるようだ。

 なかなか興味深い洞察である。「事実」 としては、たしかにまったくの間違いではない。だが、いつものことだが、彼らはその 「解釈」 を間違えている。つまり、事実と事実をつなぐ論理にまったく根拠がないため、ただの 「妄想」 にしかなっていないのだ。

 そもそも、「事実」 はそれだけではなにも語りはしない。「事実」 から 「意味」 を引き出すために必要なのは 「理性」 なのだから、「理性」 に欠けた者は、いくら 「事実」 を集めたところでなにも見ていないのと同じである。

 彼らの 「妄想」 とは異なり、そのような 「事実」 から明らかになることは、「疑似科学」 に対して批判的な立場、理性的な 「議論」 を重んじる立場、さらには 「陰謀論」 に対して批判的な立場には、互いに強い相関性があるということである。

 そして、その逆に、「疑似科学」 に対して没批判的な立場、理性的な 「議論」 を軽視する立場、さらに 「陰謀論」 を受容しやすい立場との間にも、同様の強い相関性があるということだ。

 たとえば、 「疑似科学」 的発想と 「陰謀論」 的発想が実際に結びついた例としては、「社会ダーウィニズム」 の影響を受けたイタリアの犯罪学者ロンブローゾの 「生来的犯罪人説」 や 「優生学」、さらにはナチスのイデオローグであったローゼンベルクが提唱した 「人種理論」 などが「ユダヤ陰謀論」 と融合した結果、ユダヤ人や男色者、障害者らへの迫害が行われたことなどがある。

 そのような 「疑似科学」 的発想と 「陰謀論」 的発想との相関関係には、ちゃんとした根拠がある。それはつまり、理性に基づいた批判精神の欠如であり、非合理的なイデオロギー的言説に対する根拠を問わぬ軽信的な心性と言えるだろう。

 「疑似科学」 が問題なのは、それが一見科学的な手法に基づいているかに見えるため (それは、意図的な場合もあれば、当人の過誤に基づく場合もある)、その専門性に通じていない一般の人々には、なかなか嘘を見抜くのが難しいからである。

 実際、「劣等」 な者と断定された人々に対する断種や不当な隔離のような 「優生政策」 といった誤った政策を裏付ける根拠として、そのような 「科学」 の成果が持ち出されると、人はなにかおかしい、とは思っていても、正面から批判することが困難になってしまう。

 そのような 「擬似科学」 の不当性を暴くには、場合によっては、たしかに専門的な科学者による詳細な批判が必要なこともある。「疑似科学」批判に対する一部のアレルギーは、たぶんそこから来ているのだろう。だが、「疑似科学」批判は、なにも科学の万能を主張しているわけではない。ましてや、「おとぎ話を信じるな !」 などとは、だれも言っていない。

 言うまでもないことだが、まっとうな科学者だって間違えることはある。当初は正しいと思われていた学説が、のちに誤りであったことが証明される例などはいくらでもある。そもそも、完全な科学などはありえないのだから、その意味では、まっとうな科学と 「疑似科学」の間に、明確な線を引くことは不可能だろう。だが、だからこそ、必要なのは 「科学」 の権威を借り、「科学」と結び付けて押し出される言説に対して、正当な懐疑の目を欠かさないということだろう。

 「9.11陰謀論」 の信奉者らに言わせれば、「陰謀論」 への批判が最近とみに高まっているのは、9.11の 「真実」が暴かれるのを恐れている人々が、躍起になって 「真実」を叫ぶ声をふさごうとしているからなのだそうだ。どうやら、批判が強まれば強まるほど、彼らは 「自信」 と自らの主張への 「確信」をますます強めているらしい。

 だが、そういう論理は、うん十年前にもよく言われた、「権力による弾圧が厳しいのは、敵がわれわれを恐れているからだ ! 」 という、昔懐かしい論理の焼き直しにすぎない。そのような倒錯した論理は、せいぜい自己憐憫にしか役立たないものであり、政治的社会的な運動が最終的な袋小路に陥った場面では必ずと言っていいくらい出てくる、現実から目を背け逃避することを目的とした内閉的な論理である。

 いまや、彼らには自分らを除いた周りのすべてが敵に見え、あちらこちらに、自分たちを攻撃する 「陰謀」 が網の目のように張り巡らされている、といったふうに見えているようだ。