断言する快感と断言される快感

「ずばり言うわよ」 というのは細木数子女史の決め台詞であるが、この番組、3月で打ち切りになるという噂があるらしい。本当であれば、実にめでたいことである。

そういえば、みのもんたには 「みのもんたの朝ズバッ!」 という人気番組がある。こちらは、一般庶民の皆様にかわって、世の中の不正や間違ったことをずばずば指摘するという頼もしい番組らしい。ちなみに、どちらの番組もTBS系列である。

さて、「ずばり」 という言葉を 「広辞苑」 で引いたら、こんなふうに書いてあった。


 ずばり ① 刀で勢いよく切断するさま
      ② 相手の急所や核心を正確につくさま
           「ずばりと言い切る」「そのものずばりだ」


うむうむ、なかなかずばりとした説明である。
 
ところで、こういう番組が人気を集めるのは、一方にあなたにかわって 「ずばり言ってあげましょう」 という人がおり、他方にわたしのかわりに 「ずばり言ってください」 という人がいるからだろう。むろん、そのさい、「ずばり言う」 のはだれであってもいいわけではなく、それなりの特異なキャラクターとか能力とかが必要なのではあるが。

つまり、そういう関係を成立させているのは、「だれかにずばり言ってほしい」 という多数の匿名の欲望の存在なのだろう。そこにあるのは、無力な私に代わって、だれかに 「ズバッと言ってほしい」 という欲求であり、彼らはそのようなだれかが自分の代わりに 「ズバッと」 問題のありかを指摘し、単純明快にすべてを説明してくれることを期待しているわけだ。


それと同じような構造は、「アポロ陰謀論」 だの 「9.11陰謀論」 だのを宣伝している種々雑多な小教祖的な 「カリスマ評論家」 と、彼らの熱狂的信者の間にも見られる。彼ら信者が求めているのは、世の中の複雑な問題に対して、自分に代わって神のお告げのごとき明快な答を与えてくれる存在にすぎない。

また、それとは別に、自分自身に対して 「ズバッと」 言ってくれる人を求めている場合もある。こっちの場合には、権威的な他者に対する依存的心性の存在はさらに明瞭だ。

サルトルは 『実存主義とはなにか』 の中で、ドイツによる占領下で、母親の世話をするために家に残るべきか、家を出てレジスタンスに参加するべきかを彼に相談してきた若者の例を引きながら、決定にさいして誰かに助言を求める者は、だれを相談相手に選ぶかで、じつはすでに答を自分で選んでいるのだというようなことを言っている。

つまり、細木数子みのもんたに相談する人は、多くの場合、彼らが言うであるような答を予想しているのであり、最初からそれを求めているということになる。そのような相談者が欲しているのは、たんに自分の決定の正しさを彼らに保証して貰いたいということであり、もっと言えば、そのような決定を下したのは自分ではないという図式を作ることで、その責任を自分の代わりに負ってもらいたいということなのかもしれない。

最後に、フロムの 『自由からの逃走』 でも持ち出そうと思ったが、これは有名な本であるし、ちょっといま見つからないのでやめておく。まあ、ようするにファシズムを生み出した心理的基盤として、サディズムマゾヒズムが融合した権威主義的パーソナリティというものの存在を指摘したという話である。