人間はみな「特定の思想」にかぶれているものだ

以下の文は、あるブログについていた、次のようなコメントに対する批判として書く。


>またいかなる特定団体や特定思想にかぶれているわけでもありません。


このような言い方が、一種の弁明であることは言うまでもないだろう。自分はどちらにも偏っていない、「不偏不党」で「公正中立」な立場から意見を言っているというわけだ。むろん、言いたいことは分からないでもない。

だが、特定団体はともかくとして、特定思想とはいかなる意味なのだろうか。

思想とは、スーパーやコンビニの商品陳列棚に手際よく並べられていて、そのときどきの気分に合わせて、適当に見繕ってお買い上げできたり、気に入らなかったら返品できるようなお手軽なものではない。また、なにも「〜〜主義」だとかいうようなごたいそうものだけが、思想というわけでもない。

そもそも、生れたばかりの赤ん坊でもない限り、人間はみな「特定の思想」にかぶれているというべきだろう。どのような「特定の思想」にもかぶれていない人がいるとすれば、そのような人は生きた固有の人間ではなく、血の通っていない単なる人間一般でしかあるまい。

自分は「特定の思想」にかぶれていない、という言葉は、なんであれ具体的な問題に対して、メタな立場を気取ろうとする人間がつねに持ち出す言葉である。むろん、なんらかの問題についての立場が、賛成か反対かという二つしかないわけではない。

だが、そのような問題に対して意見を言うことは、すでに「特定の立場」から「特定の意見」を言っていることだろう。どのような立場にも立っていない、無色透明な意見などこの世にありはしない。

自分の意見があるのなら、それだけを言えばよい。つまらぬ弁解じみたことなどいう必要はない。

要するに、そのようなことをいう人間は、自分がどのような「特定の思想」にかぶれているかすら、考えてみたことがない人間なのだ。

公正であるために必要なことは、まず自分がどのような「特定の思想」にかぶれているかを、真剣に顧みることである。どこにでもあるような「固定観念」だけで、他人につまらぬ難癖をつける暇があるのなら、まずは自分自身の目が、どのような「特定の思想」のために曇っているかを考えたらどうなのだ。


追記: 特定の言葉に過剰に反応することは、その言葉に対する当人の強い嗜好を証明しているにすぎない。