花岡信昭という不実で怠惰な精神

花岡信昭の言葉の端々から窺えるのは、自分は素朴な善意の人であるという強い信念だ。それは、たとえば 「ヒステリックにこの事件を伝え、米軍基地は出て行けとののしった一部メディア、とくにテレビは、いま、どう考えているのだろうか。正義派ぶったコメンテーターらのおぞましい顔がいくつも浮かんでくる。」*1といった言葉からも窺える。自分は、彼らのように建前や理念ばかりを振りかざす「正義派」などではないというわけだろう。

たとえば、「こういう事件を前にしては、人間の尊厳に対してどこまでも誠実でありたい。」*2という、最初の言葉にしても、彼自身にとっては本心から出たものであり、別に「偽善」などという意識はないのだろう。だから、一部の批判者から「鬼畜」だの「外道」だのといった激しい言葉を投げつけられたことには、当惑する以外になかったのだろう。

そのため、彼としてはそのような激しい言葉で避難されたことに対して、「反論、異論、批判、大いに歓迎だ。だが、ネット社会に巣食う「匿名を隠れ蓑とした誹謗中傷」「悪罵の投げつけあい」はなんとかならないか、と常に思う。」*3とか、「例によってネット社会は「匿名を隠れみのとした誹謗中傷」が横行するという負の側面があるから」*4というように、タレントらの不用意な発言をきっかけに起こるバッシングや、よくある「炎上事件」のひとつということにしてしまっている。

結局、彼は自分の発言がなぜ強い反発を呼んだのか、まったく理解できていない。いや、自分への非難を、ネット上でよくあるたんなるバッシングの1つにおとしこめることで、その理由を想像することすら拒否している。これには、ほとんど唖然とする以外にない。

ネットという世界では、本音をぶつけ合うことが可能になる。マスメディアではどうしても建前先行になってしまう。当方は新聞や雑誌の原稿でも、本音ベースで論じないと本質にはさわれないと思うから、ときに先鋭的になる。*5


しかし、そのような「本音」というものは、往々にして単なる俗論に過ぎないものである。しかも、そのような俗論が「産経新聞」の「客員編集委員」という肩書のもとに流されるなら、当然に世間の俗情という流れに掉さす働きしかしない。これでは、ただの無責任な自己の正当化にすぎまい。

反基地勢力のいかがわしさといったときも同じだ。彼の発想の根本にあるのは、彼らのような「政治勢力」はいかがわしいが、自分はそうではないという信念だ。「政治的行為」をやっているのは彼らであって、自分はそれに加担などしていないということだろう。ケツの青い若造ならともかく、政治記者暦30年という「ベテラン」なのに、「政治」ということについて、この程度の認識しか持っていないとはいやはやである。

「政治」はなにも永田町やその周辺だけで行われているわけでも、デモや集会、選挙やスローガンなどだけで戦われているわけでもない。彼には、このような言論によって、自分もまた充分に政治的に行為しているという自覚すらないのだろう。

だから、その点を踏まえて、あえて「とんがった」表現を使ったりもした。*6

こんなことを言っているところを見ると、結局齢のわりにずいぶんと未熟な人でしかないように思える。なんとも、お粗末な人だ。

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