はしゃいでいるのは誰なのだ

個別の事件というものは、どんな場合にも、そのような事件が発生しうるということ、つまりそのような根拠と条件が現に存在しているということを示す例証であるにすぎない。
個別の事件の「具体的事実」を微に入り細にわたって嗅ぎまわり、挙句のはてには「ジャーナリスト」であることを盾にとって、公表されていない「事実」を知っているかのように仄めかす人間は最低である。
事件を「政治的」に利用するのはよくないというのであれば、「政治的」に利用しないやり方というものを提示する義務があるはずだ。
そのような方法を何一つ示すわけでもなく、現実に基地と「共存共栄」することを強いられてきたという事実には目をふさぎながら、いまさらのように「共存共栄」を説くだけで、問題をただの「しつけ」の話に解消し、あまつさえ最後にはおためごかしの説教をするということは、それこそ最初の「批判」が、自己の気に入らぬ勢力を叩くと同時に、問題の所在を隠蔽することを目的とした、「政治的」なためにする批判でしかないということを自ら明らかにしたようなものではないか。
事件を「政治的に利用」する者の「いかがわしさ」などとよくもまあ言えたものだ。一番いかがわしいのは、いったいだれなのだ。


本館関連記事:開いた口が塞がらぬとはこのことだ