春である

春である。てふてふが一匹 韃靼海峡を渡っていき、上り下りの船人の櫂のしずくも花と散る春である。川の水が温み、桜の開花宣言も出て、ようやく蕾がちらほらと開き始めた春である。とはいえ、春の嵐という言葉どおりにときおり突風も吹き、夜になればまだまだ暖房器具が手放せない。

チベットをめぐるニュースでは、中国政府によりわずか数日の取材を許された外国人記者らに対して、寺院の若い僧侶らが涙ながらに窮状を訴えるという場面が報道された。その後の新華社報道では、外国記者団に直訴した彼ら僧侶は処罰を受けることはないということである。むろん、そうあって欲しいものだが、少なくとも彼らは、政府によるそのような 「寛容」 をあらかじめ期待していたわけではあるまい。

様々な不利益や厳罰を覚悟しながらも、抗議の声をあげる者がいるということは、すでにそこに、彼らにとっては受忍しえない抑圧があるということの証明と見るべきだろう。チベットに限らず中国については、確実な情報が圧倒的に少ないことは事実だが、それは言うまでもなく、政府による管理と統制の結果でもある。

そもそも遠い海の向こうから伝わってくる個別の情報の信憑性など、どこの話だろうと、疑い出せばきりがないものだ。問題はそのようなところにあるのではない。

中国側は、そのような不満の声は少数であり、住民の大多数は民族の団結を支持しているのだと主張している。それはそうかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、処罰覚悟で声をあげざるを得ない人間がいるとすれば、そのような声を少数だからといって無視してはなるまいし、またそれは無視できるような性質のものでもないだろう。

付言するならば、戦時下の日本においても、国民の多数は国家の戦争遂行を熱烈に支持しており、そのような政策を批判して激しい弾圧を受けていた者らは、国民の中のごくごくわずかな少数に過ぎなかったのだ。 

なお、意図的に二重基準を行使する者らはともかくとして、人はまずイラクでのアメリカの行動を批判しなければ、チベットでの中国の行動を批判できないわけではないし、その逆もそうである。

それとも、人はある国での抑圧を批判するたびに、アメリカのイラク介入から始まって、イスラエルによるパレスチナ人抑圧、フランスの移民政策、トルコによるクルド人抑圧、ロシアによるチェチェン人抑圧、スーダンによる黒人住民抑圧、ナイジェリアによるイボ族抑圧、アゼルバイジャンによるアルメニア人抑圧、オーストラリアによるアボリジニー同化政策ブルガリアによる同化政策ケニアルワンダでの部族対立、ジンバブエ独裁政権などなどの長々しいリストを、落語のじゅげむじゅげむのように繰り返し、前置きしなければならないのだろうか。

個々の人間や組織の持てる力や時間は限られたものだ。人がある問題にかかわる動機など、たいていの場合、単なる偶然からくる機縁のようなものである。そのような機縁によって行動する者らに対して、X X X の問題を取り上げていないのは不公平だというような難癖をつけるのは、ただの言いがかりにすぎない。

また、面倒な外交関係などに配慮せざるを得ない、国家や政権与党であればいざ知らず、個々の問題の優先性を、政治的重要性などというような物差しでのみ計るならば、少数者の声はいつまでたっても取り上げられず、だれにも聞き取られないということになるだろう。

一部でのび太の生まれ変わりと噂される福田首相は、道路特定財源の再来年度からの一般財源化を明言するという、一か八かの賭けに出た。小沢一郎鳩山由紀夫よ、次は君たちの番である。大山鳴動してねずみ一匹とならぬことを、ただ祈るのみである。

http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200803290000/


追記:
左右のダブスタ問題があちこちで話題になってたらしいが
http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20080324/1206286861とかhttp://d.hatena.ne.jp/nichijo_1/20080323/p1
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080326/p1など)
とりあえず「善意による無知」に基づいて結果的にダブスタに陥っていた場合と、明らかに意識的な故意によるものは区別した方がいいと思う。最も悪質なのは、言うまでもなく故意にダブスタを行使するものであり、自己のダブスタを正当化するために、他人へのダブスタ批判をする人たち。それは右にも左にもいる。だから、その意味では左翼だの右翼だのといったことは、ダブスタ問題とは関係ない。

むろん、現実には、そのような区別がつねに明確に付けられるわけではない。
そのような無知や愚かさはだいたい自己のイデオロギーから来ているものであり、善意による無知だからといって、最終的な責任が問われないわけでもない。
イデオロギー的に完全に公平中立な人間などいないし、そんなものを目指す必要もない。ただ、イデオロギーからくる迷妄や、その可能性についてはつねに注意が必要だというはなし。

公正であるということは、中立であることと同じではない。人は公正であるために、中立を気取る必要はない。必要なのはつねに、自己を客観化=対象化できるかということ。それができなければ、その人のイデオロギーは宗教と同じということ。