脱力のコメント

http://lovenews.exblog.jp/8504719/

私は権力は批判しますが
一般市民は批判しません!


上の記事にこのコメントをつけた人も、別に自分は「一般市民」などよりはるかに偉いのだから、「一般市民」風情がなにか間違ったことを言っていても相手になんかしない、などという意味で言っているわけではないだろう。だから、そういう揚げ足取りはしない。

それに、「一般市民」というものはそれこそ星の数ほどいるわけで、それを一つ一つ取り上げて批判するわけにもいかないというのは、そのとおりだ。

しかし、相手がネット上の特殊な「一部業界」に限られているとはいえ、そこそこに影響力を持っているブログであれば、話は違ってくる。

また「権力」とはなにか、「権力」は誰によって行使され、誰によって容認され、誰によって支えられているのかという、最も本質的で根本的な問題もあるが、これは面倒なのでおいておく。

ただ、そもそも現代の「民主主義」国家においては、「権力」を批判するぐらい簡単なことはないのだ。「民主主義」国家においては、誰もが政治について語ることができるし、「権力」を批判することもできる。

しかし、当然のことながら、「権力」の側はネット上にあふれる「一般市民」による批判などに、いちいち反論してきたりはしない。「政治家」も「権力者」も、それほど暇ではない。

だから、誰もが「権力」に対しては安心して批判することができる。なにしろ相手から逐一「反論」されたり、自分の批判の弱点を突いてこられたりするおそれがないのだから。

ネット上にあふれる、「左派・リベラル」だの「護憲派」だのを名乗る者らによる、いささか素朴でナイーブな「権力」批判というものが、しばしば反抗期の子供による親への甘ったれた反抗に似てくるのはそのせいである。

批判した相手からの「反論」や、第三者からの「批判」といったことへの覚悟もない者らが、いくら口をそろえて「権力」なるものを批判したところで、そんな言論にいったいどれだけの力があるだろうか。そのような「権力批判」などは、せいぜい「床屋政談」にしかならない。

そもそも、せっかくの誰もに開かれた広いネット空間なのである。そこで、ただ荒野に呼ばわるがごとき、壁に向かって叫ぶがごとき、なんの答えも返ってこない一方向的な言論しかしないというのでは、あまりにもったいないし、意味がないではないか。

だいたい、「批判」や「論争」というものは、なにも相手への攻撃や相手を叩くことのみを意味しているわけではないのだ。自分らの愛するブロガーが犯した誤りのほうはなんのかんのと理屈をつけて小さくしようとし、批判した側のほうに問題があるかのようなことばかりを言っている。相変わらず、ちっとも分かっていない人たちだ。


追記:
「権力」や公的性格の高い個人、団体に対する場合と、私人に対する場合とでは、「批判」の仕方や姿勢に違いをつける必要がある場合もたしかにあるだろう。また、個々のブロガーが、それぞれに自分なりの方針を立てることは自由であり構わない。
しかし、「一般市民は批判しない」ということが、政治や社会批判を行う場合にとるべき正しい姿勢であり普遍的な原則であるというように、冒頭で引用したコメントをつけた人が考えているとしたら、それはとんでもない間違いであり勘違いである。
そもそも、そのような「一般市民」どうしでの批判や論争、議論、言い合いなどがなくて、いったいどうして民主主義というものが成立し機能するというのだろうか。
そのような「一般市民」どうしの互いの批判や議論なくして、草の根からの本物の民主主義など成立するはずないではないか。



本館関連記事 「優しさ」をめぐるちょっとした考察