「情況への発言」から

 われわれが「左翼」と称するものの中で、良心と倫理の痩せくらべをどこまでも自他に脅迫しあっているうちに、ついに着たきりスズメの人民服や国民服を着て、玄米食に味噌と野菜を食べて裸足で暮らして、二十四時間一瞬も休まず自己犠牲に徹して生活している痩せた聖者の虚像が得られる。そしてその虚像は民衆の解放のために、民衆を強制収容したり、虐殺したりし始める。はじめの倫理の痩せ方が根底的にだめなんだ。そしてその嘘の虚像に自分の生き様がより近いと思い込んでいる男が、そうでない「市民社会」に「狂者にも乞食者にも犯罪者にもならず生きてある」(注:黒田からの引用)男はもちろん、それに自分よりも近い生活をしている男を、倫理的に脅迫する資格があると思い込み、嘘の上に嘘を重ねてゆく。

 この倫理的なやせ細り競争の嘘と欺瞞がある境界を越えたときにどうなるか。最も人民大衆解放に忠実に献身的に準じているという主観的思い込みが、最も大規模に人民大衆の虐殺と強制収容所と弾圧に従事するという倒錯が成立する。これがロシアのウクライナ共和国の大虐殺や、強制収容所から、ポル・ポトの民衆虐殺までのいわゆる「ナチスよりひどい」歴史の意味するものだ。そしてこの倒錯の最初の起源が、じつに黒田喜夫のような良心と苦悶の表情の競いあいの倫理にあることはいうまでもない。


   吉本隆明「情況への発言」より (『重層的な非決定』所収)
   付け加えることはなにもなし


参考記事:「美しい魂」を持った人