「差別」についてのメモ

いつの時代も、社会の中の差別は、「おれはお前らを差別してやるぞー」などという悪意と差別意識をむき出しにした「差別主義者」などという者らによって支えられているわけではない。
社会の中に埋め込まれた多様な差別を実際に支えているのは、多くの場合、むしろ善意の人々の「優しさ」という無意識の差別である。それが不当な差別であることが、最初から誰の目にも明らかであるのなら、そのような差別などそもそも成立するはずがない。
だからこそ、親や家族、社会の「愛」によって圧殺され続けてきた脳性マヒ者の団体である「青い芝の会」は、「われらは愛と正義を否定する」と宣言したのではなかったのか。

社会の中の多様な差別には、それぞれに異なる社会的な根拠とイデオロギー的な根拠がある。ある差別と闘っている人が、別の差別については無自覚に肯定している例など、探し出せばいくらでも見つかる。
自分がある差別のために苦しんだことがあり、あるいは現にそれと闘っているからといって、そのことは、その人が他の差別について「無垢」であることの保証にはならないし、ましてや「免罪符」になどならない。


日本脳性マヒ者協会 全国青い芝の会行動網領
画面の向こうに対して働かすべき想像力


追記:
ある言葉に対して、「自分は傷ついたー」と大声で喚いた人は「被害者」に認定され、それに対し、表面上はなにも泣き言を言わずに耐えた人は「被害者」にならないのか。
もし、本気でそんなふうに考える者がいるなら、そんなやつは人間としての想像力を欠いた、軽蔑にも値しないただの愚か者だ。
少なくとも、自称「フェミニスト」の看板など、さっさと下ろしたほうがよい。
http://teagon.seesaa.net/article/103326356.html


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