「説明図式」についてのメモ

ある事象についての「説明図式」というものは、可能性として言う限り、通常いくつも成立しうる。
たとえば、地球から見た天体の運行についても、天動説と地動説のどちらも論理的には成立するように(むろん、その場合、天動説の仮説は地動説よりはるかに複雑になるわけだが)。
まして、そのような自然現象とは異なり、人間の意思、それも複数の意思が介在する社会的事象の場合、「陰謀」だとか、誰かの「悪意」や「敵意」、他人を「嘲笑」したいという欲望だとか、ただの「自己顕示欲」によるだとか、はるかに多数の「仮説」が成立しうるだろう。
たとえば、ある「騒動」の原因、またそれが延々と続く理由を、ある人々の「悪意」としたり、他人を「嘲笑したい」とか「見下したい」とかいう不純で邪な動機に求めるという仮説は、むろん可能性としてはまったく成立しえないわけではない。
しかし、そのようなある社会的事象について、人がどのような「説明図式」を好み、採用するかということには、すでにその人のイデオロギー的な立場と思考の特性が表れている。
そのような「説明図式」は、多くの場合、「事実」についての説明というより、むしろその人自身が無自覚に持っている思考傾向の表明であり、また人間観や社会観の反映として見るべきだ。


追記
http://nikemild.exblog.jp/8318976/
「すでに死んでいる」のは、いったい誰なのだ。
うちゃさんのところで、今西進化論だとか、岸田秀だとか持ち出して、「やすもんのインテリ崩れ」を気取っていたのは、いったい誰なのだ。
「自業自得の覚悟」など最初からなく、今頃になって火消しともみ消しに躍起になっているのは、いったい誰なのだ。
いったんは撤退宣言をし、意味不明の謝罪コメントまでつけながら、強力な味方が現れたと見るや、がぜん元気を取り戻すというのは、いったいどういうつもりなのだ。

(痛いところをつかれて云々というような、ワンパターンで面白くもない反応は、なしでお願いね)