陰謀論の恐怖

陰謀論」になじみ、そのような巨大な「陰謀」と闘っているつもりの者らは、いつしか自らもそのような「陰謀」的方法、すなわち組織的なデマや中傷といった手段を、当然のものとして受容するようになる。
あちらこちらに潜んでいる、姿の見えない敵がそのような手段を使っているのに、われわれが同じ手段を行使することをためらう必要がどこにあるだろうか。いや、そのような敵と戦い、そのような敵を倒すためには、われわれも同じ手段を行使することを躊躇っていてはならない。これは、当然の論理であり、論理的帰結である。
ある敵と闘っている者、あるいは闘っているつもりの者らが、その敵あるいは仮想敵としだいに姿形が似通い、区別がつかなくなっていく。そのような例には、中世の魔女狩りや、20世紀の「赤狩り」、現代の「反テロ」戦争など、いくらでもあげられる。
もっとも、太田龍のような男の場合は、もともとの陰謀家的体質が嵩じて、正真正銘の「陰謀論」者になったのだろうから、これはニワトリと卵の関係でもある。


追記:たとえば、あちらこちらに出没している「ねこ」という男(?)がそうである。