個人は抽象的カテゴリの単なるサンプルではない

生きている具体的な個人というものは、どんな場合にもある一つのカテゴリーだけにすっぽり収まるものではない。たとえば、川田龍平さんがエイズ患者であるとしても、彼のすべてがそのことに還元されるわけではないし、乙武さんが障害者だとしても彼の存在のすべてがそのことだけで説明されるわけでもない。

だからこそ、彼らがエイズ患者であり、あるいは障害者であったとしても、それとは別に、個人としての彼らを批判すること自体にはなんの問題もない(その内容や方法の是非はともかくとして)。

同様に、ある人が現に「派遣社員」であって、そのことが今の彼にとって非常に重い意味を持っているのだとしても、その人の存在は、そういうカテゴリーだけに収まるものではないだろう。もし、彼が自分で自分をそのように考え、そのように主張しているのだとすれば、それこそがおかしな話である。なぜなら、それは、自分は「派遣社員」であるということを除いてしまえば、なんの個性も人格も持っていないと主張するのと同じだからだ。

人は「派遣社員」であると同時に、たとえば40代後半の男性であったり、どっかの県の出身者であったりする。また、どっかの学校の卒業者か中退者であったり、いろいろな経歴や友人を持った人間であったりもする。ひょっとすると、北一輝磯部浅一を尊敬する人間でもあるのかもしれない。

そういった個人の思想や、趣味、嗜好、経歴は、たとえば「派遣社員」などというカテゴリとは別の問題であり、彼は「派遣社員」であると同時に、別のいくつものカテゴリにも属するだろう。それは、音楽家にもいろいろな人がおり、詩人や作家にもいろいろな人がおり、また「正社員」や「自営業者」にもいろいろな人がいるのと同じことである。

だとすれば、そのような個人がなにかの理由で罵倒されたことは、それが彼が「派遣社員」だという理由によって行われたのでないかぎり、その人が属すると主張している「派遣社員」というカテゴリとも、それに属する他の者ともなんの関係もありはしない。

そもそも、具体的な人間の存在をそのようなただ一つの抽象的カテゴリだけに押し込めてしまうことは、むしろ差別を固定化することにつながる。なぜなら、差別からの解放とは、そのようなカテゴリそのものの無化を目指すものだからだ。

たとえば、たしかに「障害者」というようなカテゴリ自体は、障害を持った人間が存在する限り、消滅しないだろう。だが、障害を持つことによって不利益を被るという状況が消滅すれば、「障害者」というカテゴリは、単なる身体的または精神的な一定の状況を表すという以上の意味を持たなくなる。

「障害者」の解放とは、障害を持った者も、そうでない者と同様に、一人の固有の人間として扱われるようになることを意味している。「差別」からの解放とは、一般にそういうことである。

ある人が在日朝鮮人・韓国人であるということが、社会において、その人個人がどのような人間であるかということよりも大きな意味を有しており、そこに属する個人が一人の人間としてではなく、そのような抽象的なカテゴリの単なる1サンプルとして扱われている限り、そのような差別はいまだ厳然として存在している。

http://blog.livedoor.jp/gegenga/archives/51489565.html