「貧すれば鈍す」は差別的表現か

「衣食足りて礼節を知る」という言葉もあるが、人間は極度の貧困に陥れば、目先のことしか考えられなくなる。それはそうであろう。今日一日をどう生き延びるかが問題であるときに、10年先、20年先のことなど考えられないのは、今さら説明するまでもないほど当たり前のことである。そのようなとき、人はたとえばおかしな儲け話にころっと騙されたり、やむにやまれずに犯罪に手を染めたりということもあるだろう。

かのジャンバルジャンは、空腹を満たすためにパンを盗んで捕まったわけだが、収入の道が閉ざされた結果、ただで飯を食わせてくれる刑務所に入るために、犯罪を繰り返す人らも今の時代には現にいる。

今日一日、食べるものが得られるかどうかも分からないような極度の貧困は、人間の心の余裕を失わせ、未来への希望を失わせ、冷静な判断力もしばしば失わせるものである。その結果、そのような貧困にはまり込んだ人間は、アリ地獄にはまったように、そこからなかなか抜け出せなくなくなるだろう。そのような状態を簡潔に表すとすれば、それこそがまさに「貧すれば鈍す」ということになるだろう。

いささか逆説的に聞こえるかもしれないが、人間はまさにそのように「貧すれば鈍す」という存在だからこそ、そのような貧困は、たんなる個人的な問題ではなく、政治が責任を負うべき社会的問題であるというべきではないのか。

むろん、すべての人間が同様とは限らないし、その程度も人によって様々だろう。どのような貧困状態にあっても、「貧すれども鈍せず」ということを心がけている誇り高き人とかももちろんいるだろう。だが、「清貧」なる言葉がどこかうそ臭いように、人間はいつまでも「武士は食わねど高楊枝」などとやせ我慢をしているわけにはいかない。

もし、すべての人たちがどんな貧困状況に陥っても、けっして「貧すれど鈍せず」でいられ、「武士は食わねど高楊枝」でいられるのなら、この世に「格差問題」も「貧困問題」も、社会問題としては存在しないのと同じことになるだろう。その意味で、この言葉には隠しようのない人間のリアルな真実が含まれている。それを差別的などという言葉で否定するのは、そのような貧困がいかなるものかも知らない者のやることであり、それこそが現実の問題を口先だけで隠蔽するただの「ブルジョア的欺瞞」というべきである。

そもそも、この言葉は、ただたんに「おまえらは貧しいから、頭も悪いのだ」というような単純な意味ではない。むろん、このような言葉を、真に貧困にあえぐ者に対して直接ぶつければ、嘲りととられてもしかたあるまい。だが、この言葉は、むしろふつうは自嘲の言葉や、あるいはそうなってはならないという自戒の言葉として使われているはずである。