「だめなものはだめ」と言う勇気

という題でなにか書こうかと思ったけど、時間もないので断念。

そのかわりに、「地下生活者の手遊び」(ドストエフスキーの『地下生活者の手記』から取ったのかな)の「すべてのものの90%は屑である、という絶対真理」から一部引用することにする。


・ すべてのものの90%は屑である スタージョンの法則


おお、これは初耳でした。

ピンからキリまでというコトバがありますにゃ。

党派的思考においては、自らの所属する党派の「ピン」と敵対陣営の「キリ」を比較して、自分の党派の優越を確認するというオナニー言動というのは、よほど注意してにゃーとうっかりやってしまうものですよにゃ。スタージョンはそこを常に戒めるのだにゃ。

どんな党派に属しようと、それが個々を正当化してくれることはにゃーのだ、と。


まったく、同感ですにゃ。おまけに既視感たっぷりでありますにゃ。
ほかになにも付け加えることはありませんにゃ。
別に政治党派でなくとも、そういう方法を使えば自グループの優越を証明することはきわめて簡単でありますからにゃ。もっとも、敵を攻めるにはそのもっとも弱い環を狙うってのは、団体スポーツなどでもよくあることで、戦略的にはいちおう理に適ってはおりますにゃ。


ただし、ちょこっとだけ付け加えるとすれば、政治的な意味で「敵対陣営」の方におり、その人が、たまたま今、政治的な意味での「同陣営」内で自分と対立関係にあるグループや個人から「敵」認定されていたとしても、その人がある問題についてまともなことを言ったなら、その点を正しく評価することは、「敵の敵を味方」認定なんてこととは全然関係ない。


なにも、その人のもっともでまともな点を評価したからといって、結託して一緒になにかをやろうというのでない限り、他人から「味方」認定などと揶揄されたり、横槍を入れられる筋合いはない。むしろ、そのような態度こそが、まさに「それはそれ、これはこれ」であり「是々非々」という態度なのであり、そのような訳の分からぬ因縁を他人に吹っかける方が、よっぽどつまらぬ党派根性の持ち主というべきだろう。


それよりも、気をつけないといけないのは、たまたま一定の目標や「敵」とするものが共通しているからといって、ダメダメなうえにお下劣な者らを「味方」認定するほうだろう。「清濁併せ呑む」のも、「寛容」や「大人の対応」を気取るのも結構だが、気をつけないと、いつのまにか自分までその連中と同じレベルになってしまい、気がつくと、自分も一緒に首までどっぷりと泥沼につかり、うんこ塗れになっているかもしれない。やばいと思ったら、手遅れになる前に、そんな連中とは手を切ってさっさと撤退するのも立派な勇気でありますよ。