もう一つ使いまわしでご勘弁

今年も、彼岸花の季節である。というわけで、昨年楽天のほうで書いた、「彼岸花あるいは曼珠沙華およびその他」という記事をこちらに再掲する。

 トイレの窓からふと外を見ると、いったい誰が植えたのか、赤い曼珠沙華の花が三輪ほど咲いているのが見えた。曼珠沙華彼岸花とも呼ばれているが、そのほかにも死人花とか地獄花などという呼び名もあるらしい。なにやら、妖怪変化のたぐいがぞろぞろ出てくる水木しげるの世界を連想させるような、おどろおどろしい名前ばかりである。花は花でも、沼やお堀に咲くはすのほうには、迦陵頻伽が空をまうという極楽のイメージがあるのに、ずいぶんな扱いである。

 彼岸花には毒があって、墓地に多いのは虫除けのため、田畑のあぜに多いのは害獣などを寄せ付けぬためなのだそうだ。球根にはでんぷんが多く含まれており、毒は一昼夜水に晒せば抜けるので、昔は飢饉などのときには代用食物として食べられていたらしい。そういえば、ソテツにも似たような話がある。奄美や沖縄では、ソテツの種子を飢饉や戦争中のような食料不足のときには食用としていたのだが、毒抜きが不充分だったために食べて死んだ人も続出したということだ。

 たしかに、この強烈な色の花が一面に咲いている様には、いささか妖しいところがある。わが家(といっても、築40年は経っている団地の一室であるが)から少し歩くと、椎名林檎の1stアルバム『無罪モラトリアム』に収められた「正しい街」の中に出てくる室見川が流れている。この川に沿って上流へ上流へと遡っていくと、しだいに道は坂道となって人家の数が減り、かわりに田畑が広がってくる。最近は訪れていないが、子供が小さい時分には、いっしょに自転車で散策したものである。今の時分ならば、きっと田んぼのあぜいっぱいに真っ赤な花を咲かせていることだろう。


 引退の間際に、「まんじゅーしゃかー」 と歌ったのは山口百恵であるが、近代の詩人や歌人俳人にもこの花を詠った者は多く、また歌謡の題材にもなっている。

 たとえば、俳句ならば

   つきぬけて天上の紺曼珠沙華       山口誓子


 短歌では、

    曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよし そこ過ぎてゐるしづかなる徑      木下利玄


 詩ならば、北原白秋の 「曼珠沙華」 が代表的なところだろう。   

   GONSHAN. GONSHAN. どこへゆく、
   赤い、御墓の曼珠沙華(ひがんばな)、
   曼珠沙華(ひがんばな)、
   けふも手折りに來たわいな。


 ううむ、白秋の詩はやっぱりちょっと恐ろしい。


 話は変わるが、アイザック・ドイッチャーのトロツキー評伝の第二部『武力なき予言者』に、「政治のみにて生きるにあらず・・・」という章がある。これは、発作で倒れたレーニンの回復不能が誰の目にも明らかとなり、その後継者をめぐる党内の争いがしだいに熾烈になっていく中でトロツキーが発表した、「人は政治のみにて生きるにあらず・・・」という短いエッセーの題から取られている。むろん、「人はパンのみにて生きるにあらず」という新約聖書の一節を踏まえた言葉だろう。 

 テレビのニュースでは、片山さつき福田康夫の手をこねまわすように握りしめ、誰が聞いても白々しいおべんちゃらを言っているところが映されていた。このような場面を見せ付けられては、かの許由や竹林の七賢人ならずとも、汚らわしいものを見、汚らわしいことを聞いてしまったと、おのが目と耳を洗いたくもなるというものだ。

 それにしても、この暑さ、いったいいつまで続くのだろう。


おりしも、麻生総裁誕生のニュースが流れたところである。昨年の総裁選で福田康夫に惨敗してからわずか1年しか経っていないが、この一年間でとくに麻生が実力をつけたわけでも、彼の株が上がったわけでもあるまい。ただ、たんに福田が勝手にこけて、麻生に鉢が回ってきただけのことだ。

昨年、あれほど麻生に対する不信と反発を顕わにしていた連中は、いったいどういうわけで今回は麻生支持に回ったのだろうか。現在の自民党は、まったくもって、まともな政見も見識も持たない、ただの烏合の衆と化している。総裁選で二番手に付けたのは、予想通り麻生よりも年上の与謝野馨だったが、このことはもはや、自民党には次代を担うべき人材が完全に払底したということを象徴しているかのようだ。

小池以下の三名は、今回総裁選に名乗りをあげたことで、「総裁候補」として認知され、いずれ待っていさえすれば、自分にもそのうちに番が回ってくるぐらいに思っているのだろうか。だとすれば、それはあまりに甘い考えというものだろう。小池や石原を推した「若手」議員など、次の選挙ではどうなるかも分からない連中ばかりではないのだろうか。そのような議員の支持や票など、いくら集めたとしてもほとんど意味はあるまい。

なんとも言えない、緊張感に欠けた茶番の選挙だった。小泉政治によって始まった自民党の解体と崩壊は、もはや止まるところを知らない最終段階へとはいったと言うべきなのだろう。