分断と対立の論理

貧困であれ、差別であれ、あるいはいじめであれ、なんらかの苦しみを訴える人がいると、「そんなものは〜〜に比べればたいしたことはない」と言い出す人が必ず出てくる。
いわく、「お前らの言う貧困なんて、おれたちの時代に比べればたいしたことはない」とか、「アジアやアフリカの飢餓で苦しむ人らに比べればたいしたことはない。食べるものがあるだけ、まだましだ」とか。
あるいは、「あんたの言う嫁いびりなんて、たいしたことじゃない。私らの時代にはもっと酷かったのよ」とか。
それはたしかにそうかもしれない。だが、そのようなことをことさらに言うことに、いったいいかなる意味があるのか。
そういう苦しみの中には、たしかに一定の数値化や客観的な軽重の差をつけることも不可能ではないものもある。たとえば、貧困それ自体は数値化可能だろう。だが、時代や社会的背景を無視して、ただの経済的数値だけを持ち出して比較したところで、そんなことにはほとんど意味はない。
また、暴力そのものも軽重をつけることは不可能ではない。両腕をもがれることは、片腕をもがれることよりも重いと言えないことはない。腕をもがれることに比べれば、指を数本もがれることはまだ軽いと言えないこともないかもしれない。しかし、そのような数値化や客観的な軽重による差異化が可能なのは、せいぜい主体が被った「害」の大きさでしかない。主体自身が抱える苦しみは、必ずしもそのような客観化された「害」の大きさとは比例しない。それとこれとは、また別の問題である。個々の個人が抱える苦しみというものは、ほんらい軽々しく比較や比量が可能なものではあるまい。
そもそも、そのような論理を持ち出す人は、いったい誰のほうを向いているのか。いったい、誰に対して、誰のためにそのような論法を持ち出す必要があるのか。
少なくとも、上で例示したような論理が、自分の苦しみを訴える人に対して抑圧的な機能を果たしていることは明らかだろう。「そんなものはたいしたことはない」とか「そんなものは本物じゃない」などと言う人は、ようするにそのくらいは我慢しろと言っているにすぎない。
貧困であれ、差別であれ、いじめであれ、たとえ客観的な視点からの差異化が可能だとしても、そのような苦しみを訴える人のほうを向いてしゃべるのであれば、そこでそのような論理を持ち出すべきではない。
そのような苦しみを訴える人らが現にいるにもかかわらず、「重篤な被害」と「軽微な被害」(たとえば、「課長、それセクハラですよ〜」という程度とか)といった被害の軽重による差異化という論理を持ち出すことは、その人の主観的な意図がたとえそうでないとしても、そのような苦しみを訴える人らの中に分断と対立を持ち込むことでしかあるまい。

http://blogs.dion.ne.jp/akiras_room/archives/7627015.html