徒然なるままに日くらし

 つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなしことを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。


これは、言うまでもなく吉田兼好の『徒然草』の冒頭である。「書く」ということの恐ろしさを示した句と言ってもいいだろう。
兼好法師ですら、「あやしうこそものぐるほしけれ」と言っているのだから、それほどのものではない「一般人」がネットで文章を公開しているうちに、自己意識がリアルな自己を離れて肥大化を続け、その結果、ささいなことでも、自分がなにかしら不気味な怪物のような敵に「批判され」「攻撃され」ているといった妙な妄想だとかにとりつかれておかしくなる人がいても、ちっとも不思議ではない。

「書く」という行為は、書かれたテキストによって指し示される仮構の「主体」を立ち上げることでもある。「書く」ということによって示される「主体」は、多かれ少なかれ、現実の主体とは異なっている。そこには、自分でも気付かなかった深層の主体が現れることもあれば、意識的無意識的に自己が願望としているニセの「主体」が投影されることもある。

 妄想に支配された状態の彼らの考えは自分が「批判され」「攻撃され」ているというところから、がっちりと動かない。

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けだし、名言。まことに、そのとおりである。


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