「厭世のコラージュ」おれは気に食わない

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「厭世のコラージュ」の水瓶座という人が、こんなことを書いている。

 自分と異なる論に異議申し立てをしたくなるのは素朴な感情である。とくにブログにおいては誰もが対等であるとの認識が強いため、異議申し立てをするのはたやすい。


まったく同感である。たとえば、ここここで、そこでなにが問題になっているのかも、前提となっていることも理解しないままに的外れな意見を述べたり、ただ「わたしは気に食わない」という敵意だけしかうかがえぬコメントをしている人らを見ると、その思いが強くする。


なお、水瓶座氏はこうも言っている。

 議論とはなにか。議論とは、皆が了解できる一定の結論を出すことが第一義ではなく、意見を述べ合い、問題を吟味、整理することだろう。

 これを理解せぬ議論好きは多い。議論好きとは云っても“議論が得意でも慣れてもいない者”である場合がほとんどである。であるのだからして、すっかり逆上し歯止めが利かなくなり、相手を執拗に非難、罵倒することにのみ汲々とするのがオチである。それが一度二度では収まらず、いつまでも根に持つ者も少なくない。


この点についても、まったく同感である。議論は何も、結論の一致や押し付けを目的として行われるものではない。彼我の区別を明確につけることも、その目的の一つである。水瓶座氏が書いていることは、ここここで述べたことと、ほとんど一致している。

実際世の中には、ここここ、あるいはここのように、自分たちの犯した誤りや間違った言動を批判されると、いつまでもそれを根に持ち、批判した相手への中傷と誹謗のみを目的とした「うんこ」ブログを次々と書いては消し、書いては消しと、飽きることもなく繰り返している連中もいるようだ。

その1つの「徒然なるままに」というブログでは、「それよりもどれだけ多くの人の恨みをかってるのか、その方が気にならないか?」と、自らのブログ運営の動機が恨みによることを公言していたが、まさに水瓶座氏の指摘するとおりである。

彼らは、まさに「すっかり逆上し歯止めが利かなくなり、相手を執拗に非難、罵倒することにのみ汲々」としており、「いつまでも根に」持っているように思える。

水瓶座氏が彼らの正体に見当がついているのかどうかは知らないが、もしもこのような、気に食わない相手への誹謗中傷のみを事とする一連のブログの存在を念頭において、引用した記事を書いたのだとすれば、その勇気にはまことに敬服する次第である。