人間は操作可能か

ずいぶん前(2007.01.18)に、楽天のほうで書いた記事を、一部書き直してこちらに再掲する。
今回のゴタゴタに、ちょっと関係するような気がするので。

人間は操作可能か


人間に尊厳というものがあるとすれば、それは人間がある意味で互いに理解不能であり、したがってまた、なにをしでかすか根本のところでは分からない不可思議な存在であるということと同義ではないだろうか。

子どもの自殺、通りすがりの者を無差別に襲う動機なき殺人、理解不能な動機に基づく理解不能な殺人、そういった一見不可思議な事件が起こるたびに、原因はなんだったのか、予兆はなかったのか、責任は誰にあるのかといった議論が繰り返される。

そういった議論がすべて無益だとは言わない。たぶん、なにか予兆はあったのかもしれない。そういった予兆を正しく認識できれば、確かに事件を防止することは可能だったのかもしれない。しかし、多くの場合、予兆が予兆であったことは、事件が起きてからはじめて分かるものだ。

生徒を指導する技術、部下を指導する技術、犯罪者を矯正する技術、アルコールや薬物の中毒者を矯正する技術、あるいは精神的なトラウマや、人格的な問題などを抱えた人を治療する技術。心理学については、フロイトユングといった古典的な著作をいくつか読んだことがあるに過ぎない者としては、たぶん最新の心理学の成果に基づいたであろう、そのような技術の一つ一つについて論じる資格はない。その中には、むろん現実に必要とされ、また実際に役立っているものもあるのだろう。

しかし、このような人間を対象とする技術の中には、人を錯誤に陥らせて瞞着する技術(大は政府による世論誘導、企業による誇大な宣伝広告から、小はちんけな詐欺師まで)、現実の矛盾から生まれた問題を、その矛盾を放置したまま、心理の問題に還元して解決するための技術、さらにはごく普通の若者を上官の命令によって躊躇なく引き金を引ける兵士に育てあげる技術や捕虜を心理的に追い込んで自白を強要する技術、そういったものも含まれる。

実際、アメリカなどの先進国ではこういったことのために、人間の心理やコミュニケーションに関する研究者らが政府によって動員され、その成果が具体的に応用されているというような話もよく聞く。いつの時代でも同じではあるが、現代の支配は単なる暴力によって貫徹され、支えられているわけではない。それは、コミュニケーションやマーケティングに関する理論など、心理学や社会学、その他さまざまな人間科学的な研究の成果によっても支えられている。

たとえば、デーブ・グロスマンという人が書いた「戦争における『人殺し』の心理学」という本(ちくま学芸文庫)には、次のようなことが書いてある(この本の著者はアメリカ陸軍で職業軍人を長く務めた人である。本の題名は恐ろしげだが、内容は非常に示唆に富んだ洞察力の高いものだ。どこかの国の愚かな前空幕長とは、頭のできが全然違う)

 これから見てゆくように、現代的な訓練または条件付けの技術を応用すれば、威嚇したい*1という人間の性向をある程度克服できる。事実、戦争の歴史は訓練法の歴史といってよいほどだ。兵士の訓練法は、同種である人間を殺すことへの本能的な抵抗感を克服するために発達してきたのである。高度な訓練を受けた近代的な軍隊が、ろくに訓練されていないゲリラ部隊と交戦する ― こんな戦闘はさまざまな状況下で起きているが、そのような場合、訓練が不充分な兵士は本能的に威嚇行動を取る(たとえば空に向かって発砲するなど)傾向があり、高度に訓練された兵士の側にそれが非常に有利に働いている。 (中略)

 現代戦においては、訓練および殺人能力におけるこの心理的・技術的な優位性が、つねに決定的な要因として働いている。イギリスのフォークランド攻撃や、1989年のアメリカのパナマ侵攻のときもそうだった。これらの紛争では侵略者側が圧倒的な勝利を収め、彼我の殺傷率の差は信じられないほど大きかったが、少なくともその一部は、両軍の訓練の程度と質の差によって説明できる。*2


ということは、文明化され啓蒙された兵士とは、要するに「同種である人間を殺すことへの本能的な抵抗感を克服」した兵士だということになるだろう。啓蒙には野蛮が、進歩には退歩がつねに寄り添っているというのは、そういう意味だ。こういった訓練が現実に有効であることは、一兵卒から中佐にまでのぼりつめ、陸軍士官学校の教授を務めたという叩き上げの人の言うことだから間違いあるまい。

だから、人間を対象にした技術に一定の有効性があることは否定できない。また、そのような技術が技術それ自体としてだけでなく、場合によっては社会や当該の個人にとっても有用な場合があることも否定できないだろう。

しかし、このような人間を対象とする技術というものの根底にあるのは、なんなのだろうか。技術とは対象=客体を操作可能なものと見て、そのために体系化された主体的=客体的な働きかけを行うものということができるだろう(物理学者である故武谷三男の言葉を借りれば、技術とは「客観的法則性の意識的適用」であるということになる)。そのような科学的で技術主義的な発想が、近代文明の発展を可能にしてきたことは言うまでもない。

だが、そのような技術的発想は、はたしてそのまま人間にも適用できるものなのだろうか。人間を操作主体と操作客体とに分割し対立させるような発想自体には、なにも問題ないのだろうか。単に、そのような技術も悪用せずに、正しい目的のために上手く使いこなせばいいということなのだろうか。

もしも、人間が肉体的心理的な技術によって、ああにでもこうにでも作り変えることのできる操作可能な対象であり、またその行為がなんらかの観察によって客観的に予見可能なのだとしたら、人間は結局、生命のない死んだ事物と同じだということになるだろう。

人間は、はたしてここをこうすればこうなる、あそこをああすればああなる、というような単純な存在なのだろうか。もしそうだとすれば、人間の「自由」だとか「尊厳」だとかいう言葉は、すべて中身のないただの作り話だということになりはしないだろうか。人間は、実験室の中で科学者や研究者によって様々な行動や反応を測定されている、哀れな動物たちと同じだということなのだろうか。

*1:実際の殺傷行為ではなく、単なる威嚇に止めておきたいという意味

*2:同書 P.57,58