村上春樹のエルサレム賞受賞について

いま議論になっている、村上春樹エルサレム受賞については、あちこちのブクマでごちょごちょ言うのでなく、きちんと書いてみたいのだが時間がない。
というわけで、まことに手抜きながら、id:fujiponさんのところに書き込んだコメントを転載することでお茶を濁すことにします。

http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20090127

 上の方は、今回の授賞が、村上春樹の作品がイスラエルの多くの人の心に響いたことを示すものだとおっしゃっていますね。彼の作品は、世界中で読まれていますから、イスラエルにもおそらく多くの読者はいることでしょう。日本人もイスラエル人もパレスチナ人も、「読者」としては等価なのもその通りです。


 おそらく、今回の授賞を決めた人々も、彼がイスラエル国内に多くの読者を持っていることを考慮したのだろうと思います(詳しいことは知りませんが)。しかし、授賞を決めたのは、あくまでも「選考委員会」の人たちであって、一般の読者ではないでしょう。


 それがどういう人たちなのかは知りません、またどういう過程で、彼への授賞が決まったのかも知りません。しかし、政治的なことも含めて、そこにいろいろな思惑があるのではと推測することは、必ずしも邪推ではないのではと思います。かつて、ソンタグのような例があったとすれば、なおのことです。


 ブクマにも書きましたが、言葉によって行うスピーチは、言葉を武器とする作家にとっては、けっして無意味なものではありません。授賞式でのスピーチは、単なる即席の記者会見でもパフォーマンスでもありません。「大逆事件」の判決に対する抗議として徳富蘆花が行った「謀叛論」という講演などは、むしろ彼の「小説」以上に有名であり、今日でも読まれています(作家としてはあまり名誉なことではないかもしれませんが)。


 むろん、作家の中にも、そのように直接聴衆に語りかけるのは苦手だという人はいるでしょう。それは分かります。しかし、彼が自己の意思で授賞式に出席するなら、そのことから逃げるわけにはいきません。ガザで現に振るわれている暴力に対して、たとえ明示的ではないとしても、自分の姿勢を明らかにすることは、けっして避けて通れない、また避けてはいけないことだと思います。


 おそらく、そのことは世界中の多くの彼の読者らも見守っているのではないかと思います。問題は、「パレスチナ問題」に関する政治的アピールでも、政治的立場の表明でもありません。世界の中で現実に振るわれている人間性に対する暴力に対し、文学者としてどういう立場を取るのかということが問われるのだと思います。


 むろん、それはソンタグのような激烈な弾劾演説である必要はありません。文学者に即効的な影響力を期待すべきではないのもそのとおりです。しかし、今現に暴力にさらされている人たちに対して、何らかの勇気や希望を与えることができるのなら、彼がそのような言葉を発することを私は望みます。


 今、世界のあちこちで暴力に晒され、最も希望を必要としている人たちというのは、海外で翻訳され出版されている村上春樹の「作品」を手に取り、読むような余裕などない人たちがおそらくほとんどでしょう。むろん、ガザの人々もそうです。


 だからこそ、授賞式典でのスピーチのような機会には、そういう人たちにも伝えることができる言葉が求められるのだと思います。


言うまでもないことだが、そのことを彼に問う権利は、彼のファンではない者にも、彼の本をまだ読んだことがないという者にもある。作家は自己の固定的なファンだけでなく、まだ見ぬ未知の読者に対しても語りかけるべきであり、そのためには、自己の読者によって作りだされ投影された自己の「イメージ」や「期待」などに縛られてはならない。

作家として出発するにあたって、村上春樹が大きな影響を受けた作家の中には、おそらく第二次大戦中に、イギリス空軍によるドレスデン空襲を捕虜として体験し、その体験をもとに『スロータハウス5』を書いたカート・ヴォネガットがいるだろう。

彼もまた、声高に政治的アピールを叫ぶような作家ではなかった。そのような行為は、おそらく彼が最も嫌った部類のものだったに違いない。しかし、その彼はビアフラ内戦のさなか、まさにビアフラがナイジェリア政府軍の攻撃の前に陥落しようという寸前に、ビアフラの「首都」を訪れたことがある。(参照)

求められているのは、あれやこれやの政治的スローガンを叫ぶことでも、あれやこれやの「政治勢力」に同調することでもない。そのようなことを作家に対して要求することは、むろんただの筋違いというものだろう。名前の売れた作家だからといって、なにも次から次へとあれこれの声明に署名し、あちこちの集会に出かけ、なんのかんのとアピールを発する必要はない。作家としてであれ、あるいはただの市民としてであれ、それはむろん自己の自由な意思によって行えばよいことだ。

だが、いま問われているのはそういうことではない。目の前に晒された政治を含めた過酷な「現実」に対して、何らかのメッセージを発する機会が与えられたそのときに、ただ斜に構え少しばかり気の利いた台詞を言うだけにとどまるのか、それともそうではないのかということであり、一言で言うならば「ヒューマニティ」とそれを犯す暴力に対して、いかなる態度をとるのかということである。それは、彼が「世界が抱える暴力性」ということを自己のテーマの一つとする作家であろうとするならば、けっして避けてはならないことのはずだ。

エルサレム賞というものが、「個人の自由や社会、政治をテーマとした作品を発表した作家」に与えられるというものであり(今のイスラエルの行動を見れば、それはいささか悪い冗談のように聞こえるが)、彼がそのような作家として評価されたというのであれば(それが誰によるものかはこのさい問わない)、まさにそのような言葉の本来の意味に相応しいメッセージを発してもらいたいと願うことは、けっして不当なことではあるまい。

むろん、なにを言うかは、彼の意思に任されるべきことだ。場合によっては、それによって、ある者は安堵し、ある者は落胆し、あるいは、怒りだす者すらいるかもしれない。しかし、それは現実の世界が、ただの魔法や呪文では消せない「敵意」と「対立」によって引き裂かれている以上、当人の意思や願望にかかわらず、不可避的に生じざるをえないことなのである。



追記:id:Midas氏が、またブクマでずれまくったことを仰っております。

そもそも、かりに春樹氏が賞を辞退したとしても(かりの話ですよ)、彼がその選考委員会によって「個人の自由や社会、政治をテーマとした作品を発表した作家」として、また過去にラッセルやボーヴォワールなどが受賞した「名誉ある賞」に値する作家として認められたという事実は、彼にとっての「栄誉」として残るのですけどね。むろん、その場合は賞金はなしでしょうが(いくらなのかは知りませんけど)

それは、サルトルによるノーベル賞の辞退が、彼がカミュと同様に、ノーベル賞に値する世界的な作家として認められたという事実をいささかも損なうものではないのと同じことです。
そもそも春樹氏が賞に値しないなんてことを言っている者は、どこにもいないはずですけど。

関係のない話をあちこちでとくとくとやっている人には、まったく困ったものです。
やれやれです。